て逃げ出した。
その晩彼は旅館へ行った。彼女はガラス張りの外縁《ヴェランダ》にいた。二人は目だたぬ片隅《かたすみ》にすわった。他に人は少なく、二、三の老人がいるばかりだった。それにたいしてまでクリストフは内々いらだった。グラチアは彼をながめた。彼は彼女をながめながら、その名前を小声で繰り返した。
「私はたいへん変わりましたでしょう。」と彼女は言った。
彼の心は感動でいっぱいになってしまった。
「あなたは苦しまれましたね。」と彼は言った。
「あなたもそうでしょう。」と彼女は、苦悶《くもん》と情熱とに害された彼の顔をながめながら、憐《あわ》れみの様子で言った。
二人はもうそれ以上言葉が見つからなかった。
「ねえ、他の所へ参りましょう。」と彼はちょっとたってから言った。「二人きりの場所でお話しすることはできないんでしょうか。」
「いえ、ここにいましょうよ。これでけっこうですわ。だれが私たちに注意するものですか。」
「私は自由に話せません。」
「そのほうがよろしいのです。」
彼にはその理由がわからなかった。あとになって彼は、その会談を頭の中でくり返してみたとき、彼女が自分を信頼していなかったのだと考えた。しかし実は、情緒的な場面を彼女は本能的に恐れていた。たがいの愛情が不意に起こってくるのを避けようとしていた。かつはまた、自分の内心の動揺の貞節さを失わないために、旅館の客間の中で不自由な親しみを結ぶのを好んでいた。
二人はしばしば口をつぐみながらも低い声で、自分の生活のおもな出来事を語り合った。ベレニー伯爵《はくしゃく》は数か月前ある決闘で殺されたのだった。クリストフは彼女が伯爵といっしょにいてあまり幸福でなかったことを悟った。彼女はまたその長子にも死なれたのだった。彼女は少しも苦しみを訴えなかった。話を自分のことからそらして、クリストフの身の上を尋ねた。そして彼の苦難の物語に、やさしい同情を示してくれた。
諸方の鐘が鳴った。日曜の晩だった。生活は休止していた……。
彼女は彼に翌々日また来てくれと言った。つぎの再会を彼女があまり急いでいないのが彼には辛《つら》かった。彼の心のうちには幸福と悩みとが交じり合った。
翌日彼女はある口実のもとに、彼へ来てくれと手紙を書いた。その平凡な文句にも彼は非常に喜んだ。彼女はこんどは自分だけの客間に彼を招じた。彼女は二人の子
前へ
次へ
全170ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング