。しばしば居所を変えた。この年老いた放浪の鳥には、広い空間が必要であって、その祖国は空中にあった……「予が国は空中にあり[#「予が国は空中にあり」に傍点]……。」

 夏の夕方。
 彼はある村の上方の山中を散歩していた。帽子を手にもって、羊腸たる山路を上っていった。ある曲がり角まで行くと、道は二つの斜面の間の影の中をうねっていた。榛《はしばみ》の茂みや樅《もみ》の木立が道の両側に並んでいた。四方ふさがれた小さな世界に似ていた。前後の曲がり角で、道は宙に浮いてそこで終わってるかのようだった。その彼方《かなた》には、青白い遠景と光を含んだ空気とがあった。夕べの静穏が苔の下に音をたてる涓滴《けんてき》のように、一滴ずつおりてきた。
 道の向こうの曲がり角から、彼女が出て来た。黒い服装をして、空の明るみの上に浮き出していた。その後ろには、六歳から八歳ぐらいの男と女との小さな子供が、戯れたり花を摘んだりしていた。数歩進むと二人はたがいに相手を見てとった。感動はたがいの眼の中に現われた。しかしなんらの強い言葉も発せず、驚きの身振りさえほとんどしなかった。彼は非常に心乱されていた。彼女は……唇《くちびる》が少し震えていた。二人は立ち止まった。ようやく低い声で言った。
「グラチア!」
「あなたもここに!」
 二人は手を執り合って、無言のままじっとしていた。最初にグラチアが強《し》いて沈黙を破った。そして自分の居所を述べ、彼の居所を尋ねた。ただ機械的な問いと答えとで、二人はそれにほとんど耳を貸しもせず、手を離したあとに初めて聞きとった。たがいにじっと見入ってばかりいたのである。二人の子供がそこへやって来た。彼女はそれを彼に紹介した。彼は子供たちにたいして反感を覚えた。やさしみのない様子で子供たちをながめ、なんとも言葉をかけてやらなかった。彼は彼女のことでいっぱいになっていて、悩ましげな年取ったその美しい顔を見調べてばかりいた。彼女は彼の視線に当惑した。彼女は言った。
「今晩おいでになりませんか。」
 彼女は旅館の名を告げた。
 彼は彼女の夫の居所を尋ねた。彼女は自分の喪服を示した。彼はひどく心を動かされて、話をつづけることができなかった。そして無作法に彼女と別れた。しかし二、三歩行ってから、苺《いちご》を摘んでいる子供たちのほうへもどって、いきなり引っとらえて接吻《せっぷん》し、そし
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