笑を浮かべて、その話に耳を傾けていた。時には話に口を出し、仕事をしながら頭を動かして、自分の言葉の調子をとっていた。彼女にはもう結婚してる一人の娘と、七歳から十歳ばかりの二人の子供――娘と息子《むすこ》――とがあった。この二人は汚《よご》れたテーブルの片隅《かたすみ》で学校の宿題をしながら、舌を出したり、または、自分たちにまったく無関係なその会話の断片を、小耳にはさんだりしていた。
 オリヴィエは二、三度、クリストフについて行ってみた。しかしそれらの人々の間にはいると、楽な気持を感じなかった。それらの労働者らが、工場の厳格な時間や執拗《しつよう》な汽笛を鳴らす製作所の呼び出しなどに、身を縛られていない場合に、あるいは仕事のあと、あるいは仕事と仕事との間、あるいはぶらついたり、あるいは業を休んだりして、どんなに多くの時間を空費してるかは、人の想像にも及ばないほどだった。クリストフも、精神的に一つの製作を終えて他の新しい製作が生ずるのを待つという、無為閑散な自由の時期にあったから、彼らと同じく少しも気があせっていなかった。彼は喜んでテーブルに両|肱《ひじ》をついて、煙草をふかしたり酒を飲んだり雑談をしたりした。しかしオリヴィエは、精神の規律や仕事の几帳面《きちょうめん》さや細心に倹約された時間などという伝統的な習慣のために、中流人的な本能のために、不快の念を覚えさせられた。そんなに多くの時間を空費したくなかった。そのうえ彼は雑談をすることも酒を飲むこともできなかった。それからまた、肉体上の窮屈さ、異なった人間の身体をたがいに引き離すひそかな反感、魂の交流に対抗する官能の敵対、心に反発する肉体、などがあった。オリヴィエはクリストフと二人きりのときには、民衆と親密にすべき義務を、感動しながらクリストフへ話すのであった。しかし民衆の面前に出ると、それを少しも実行できなかった。彼の観念をあざけってるクリストフが、往来で出会う労働者のだれとでも訳なく親密になれるに反し、オリヴィエのほうは、それらの人々と隔たってる自分自身を感じてほんとうに苦しんだ。彼は彼らと同様になろうとつとめ、彼らと同様に考えようとつとめ、彼らと同様に口をきこうとつとめた。しかしそれができなかった。彼の声は鈍くて曇って、彼らの声のようには響かなかった。彼らの表現のあるものを真似《まね》ようとすると、その言葉が喉《のど》から出なかったり、変に調子はずれになったりした。彼は自分自身を観察し、自分を困らし、また他の人々を困らした。そしてそれをみずからよく知っていた。自分は彼らにとって一つの他国人であり怪しい人間であること、だれも自分に同感をもっていないということ、自分が立ち去ると皆はほっと息をつくこと、などを彼は知っていた。きびしい冷たい眼つきを、貧困のためにいらだたせられてる労働者らが中流人に注ぐあの敵意ある眼つきを、彼は通りがかりにとらえることがあった。おそらくクリストフにもそういう眼つきは向けられたであろう。しかしクリストフはそれを少しも気づかなかった。
 仲間のうちで、オリヴィエと交わる気持をもってるのは、オーレリーの子供たちばかりだった。この子供たちは確かに、中流人を嫌悪《けんお》してはいなかった。小さな男の子のほうは、中流人の思想に惑わされていた。その思想を好むくらいに怜悧《れいり》だったし、その思想を理解するほど怜悧ではなかった。娘のほうはごくきれいな子で、一度オリヴィエからアルノー夫人の家に連れて行かれたことがあって、奢侈《しゃし》に眼がくらんでいた。美しい肱掛椅子《ひじかけいす》にすわったり、美しい衣服にさわったりすると、口には出さないが非常な喜びを感じた。平民階級からのがれ出て中流階級の安楽の天国へはいりたいとあこがれてる、賤《いや》しい小娘の本能をそなえていた。オリヴィエはそういう気質を養い育ててやることに、少しも興味を覚えなかった。そして自分らの階級にたいするその無邪気な敬意は、他の連中のひそかな反感から彼を慰めはしなかった。彼は彼らの悪意を苦しんでいた。彼は彼らを理解したいとの熱烈な願望をもっていた。そして実際、彼は彼らを理解していた。おそらくあまりによく理解しあまりによく観察していた。それで彼らは腹をたてていた。彼は不謹慎な好奇心でやってるのではなかったが、人の魂を解剖する習慣でやってるのだった。
 彼はやがて、ジューシエの生活の人知れぬ悲劇を見てとった。彼を破壊してる病苦と彼の情婦の残酷な遊戯とを。情婦は彼を愛していたし、彼を誇りとしていた。しかし彼女はあまりに生気に富んでいた。彼女が自分から逃げ出すかもしれないことを彼は知っていて、嫉妬《しっと》に身を焦がしていた。彼女はそれを面白がっていた。彼女は男どもをからかい、しきりに秋波を送ったり、卑猥《ひわい》な空気で皆を包み込んだりしていた。手におえない蓮葉《はすっぱ》女だった。おそらくグライヨーと通じて彼を裏切ってるかもしれなかった。おそらく彼にそう信じさせるのを愉快がってるのかもしれなかった。がいずれにしても、それが今日のことでないとすれば、明日のことであったろう。彼女がだれでも気に入った男を愛するのを、ジューシエはあえて禁じ得なかった。彼は男にたいすると同様に女にたいしても、自由たるの権利を公言したではないか。彼女は彼からののしられたある日、狡猾《こうかつ》な傲慢《ごうまん》さでそのことを彼に思い出さした。彼のうちで、自由な理論と激しい本能との間に、苦しい争闘が行なわれた。彼は心ではやはり、専制的な嫉妬深い昔の人間だった。が理性では、未来の人間であり、理想郷の人間だった。彼女のほうは、昨日と明日との女であり、いつでもの女だった。――オリヴィエは、その隠れたる闘争をながめ、その闘争の獰猛《どうもう》さを自身の経験で知っていたので、ジューシエの弱さを見てとりながら、深い憐《あわ》れみの情を起こした。ジューシエはオリヴィエから心中を読みとられてることを察知していた。そしてオリヴィエに感謝するどころではなかった。
 他にも一人の者が、この愛と憎しみとの競技を寛大な眼で見守っていた。それはお上さんのオーレリーだった。彼女は様子には示さないですべてのことを見てとっていた。彼女は世の中を知っていた。健全な落ち着いた几帳面《きちょうめん》なりっぱな女ではあったが、若いころはかなり自由な生活をしてきたのだった。彼女は花売り娘だった。中流人を情夫にもったこともあるし、また他にいろんな情夫をもった。それからある労働者と結婚した。りっぱな家庭の母となった。が彼女は人の心のさまざまな狂愚を理解していた。ジューシエの嫉妬《しっと》をも嬉戯《きぎ》を欲する「青春」をも等しく理解していた。少しばかりのやさしい言葉で、その二つを和解させようとつとめていた。
 ――人はたがいに折れ合わなければいけない。そんなつまらないことで、悪い血を湧《わ》きたたせるには及ばない……。
 が彼女は、自分の言葉がなんの役にもたたないことを別に不思議ともしなかった。
 ――役にたったためしはない。人はいつも自分で自分を苦しめずにはいられない……。
 彼女のうちには、いかなる不幸もすべり落ちてしまうような、凡俗なみごとな呑気《のんき》さがあった。彼女も不幸な目に会ったことがある。三か月前に、愛していた十五歳の男の子が死んだ……。大きな悲しみだった……。しかし今では、彼女はまた活発に快活になっていた。彼女はこう言っていた。
 ――そんなことをいつも考えていたら、生きてることができないだろう。
 そして彼女はもうそのことを考えていなかった。それは利己主義ではなかった。彼女にはそうよりほかにできなかったのである。彼女の生活力はあまりに強かった。彼女は現在のことに没頭していた。過去のことにぐずぐず引っかかってることができなかった。今あるがままのことに順応していた。どういうことになってもそれに順応するだろう。もし革命が起こって表と裏と引っくり返っても、彼女はやはりつっ立ってることができるだろうし、なすべきことをなすだろうし、どこへ置かれても平然としてるだろう。本来彼女は、革命にたいして程よい信じ方しかしてはいなかった。信仰については、どんなことにもほとんどそれをもたなかった。と言ってもとより、思い惑ったときには占いをしてもらうこともあったし、死人に出会うとかならず十字を切った。彼女はごく自由で寛容であって、パリー平民の懐疑心をもっていた。あたかも呼吸するように軽々と疑うあの健全な懐疑心をもっていた。革命者の妻ではあったが、亭主《ていしゅ》とその一派の――またはあらゆる他の党派の――観念にたいして、青春の――また成年の――愚昧《ぐまい》な行為にたいするがように、母性的な皮肉を示していた。重大なことにも心を動かしはしなかった。けれど何事にも興味をもっていた。そして幸運にも不運にも驚きはしなかった。要するに彼女は楽天家だった。
 ――くよくよするものではない……。丈夫に暮らしてさえおれば、いつでも万事うまくゆくものだ……。
 この女はクリストフと気が合うに相違なかった。二人は自分たちが同種の人間だと見てとるためには、多くの言葉を要しなかった。他の者たちが論じたり叫んだりしてる間に、二人はときどき機嫌《きげん》のよい微笑をかわした。けれどもたいていは、クリストフがそれらの議論に引き込まれて、すぐに人一倍の熱情で論じ出すのを、彼女は一人笑いながらながめていた。

 クリストフはオリヴィエの孤立と困惑とを眼に止めていなかった。彼は人々の胸底に起こってる事柄を読みとろうとはつとめなかった。ただ彼は彼らといっしょに飲食し、笑ったり怒ったりした。そして彼らのほうでは、彼といっしょに激しく論議はしても、彼に不信の念をいだいてはしなかった。彼は思ったとおりのぶしつけな口をきいていた。そして根本においては、彼らの味方であるか敵であるかは彼自身にもよくわかっていなかったろう。彼はそれをみずから考えたことがなかった。もちろん、いずれかの選択を強《し》いられたら、彼は社会主義に反対し、国家――役人を、機械人をこしらえ出す奇怪な実体たる国家――のあらゆる理論に反対して、産業革命主義者となったであろう。彼の理性は同業組合的な集団の力強い努力に賛成を表していた。そういう集団の両刃の斧《おの》は、社会主義的国家の生命なき抽象観念を打ち拉《ひし》ぐとともに、また、生産力なき個人主義、精力を細分する観念、集合の力を個々の微力へ分散する観念――一部はフランス大革命に責任のある近代の大不幸、それをも打ち拉いてるのだった。
 しかし天性は理性よりも強いものである。クリストフは、産業組合――弱者の恐るべき同盟――に接触すると、心中の強健な個人主義が猛然と頭をもたげてきた。戦いに進み行くためにはいっしょに鎖でつながれる必要をもってるそれらの人々を、彼は軽蔑《けいべつ》せざるを得なかった。彼らがその法則に服従するということを許し得ても、その法則は自分には適用してもらいたくないと宣言したかった。そのうえ、圧迫された弱者らは同情さるべきであるとしても、彼らが圧迫者となる場合には全然そうでなくなるのだった。クリストフは先ごろ、孤立した善良な人々に向かって「結合せよ!」と叫んでいたけれど、初めて善良な人々の結合の中にはいると、不快な感じを覚えさせられた。その結合の中には、それほど善良でもないくせに、善良な人々のもってる権利や力を身にになって、しかもそれを濫用せんとしてる者らが、いっしょに交じってるのだった。もっともよき人々、クリストフが愛してる人々、彼が家の中[#「家の中」に傍点]で各階で出会った友人らは、それらの戦闘組合を少しも利用してはいなかった。彼らはあまりに心が精緻《せいち》でありあまりに内気だったので、それらの組合に不快を覚えさせられていた。彼らはだれよりも第一に、それらの組合から押しつぶさるべき運命をもっていた。彼らは労働運動にたいしては、オリヴィエと同じ地位に立ってるのだった。オリヴィエの同
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