っていなかった。人は他民族の言語を外国語と名づけているが、同じ民族のうちにも、社会的境遇とほとんど同数の言語がある。各語が数世紀にわたる経験の声をもち得るのは、狭い範囲内の優秀者にたいしてばかりである。他の人々にとっては、彼ら自身の経験と彼らの集団の経験とをしか各語は表わしていない。優秀者のために使用され優秀者から見捨てられた語のあるものは、あたかも空家《あきや》のようなものであって、優秀者が立ち去ったあとには、新しい精力が住んでいる。その住み主を知らんと欲するならば、その家の中にはいってゆかなければいけない。
 クリストフは中にはいって行ったのだった。

 彼は国営鉄道の雇員である一隣人の仲介で、労働者らと交際し初めた。その男は四十五歳で、背が低く、年齢よりも老《ふ》けていて、気の毒なほど頭の頂が禿《は》げ、眼が落ちくぼみ、頬《ほお》がこけ、太い反《そ》り返った鼻が尖《と》がり、知恵のありそうな口つきをし、耳朶《みみたぶ》のこわれた無格好な耳をしていて、まったく衰頽《すいたい》した顔だちだった。アルシード・ゴーティエという名前だった。下層民ではなくて、中辺の中流階級に属していた。そのりっぱな家庭は、この一人|息子《むすこ》の教育にわずかな財産をことごとく費やしてしまったが、財源がないのでその教育をやり遂げさせることもできなかった。で彼はごく若くて国家のある役所にはいった。そういう地位は、貧しい中流人には安全な港のように思われるのであるが、実は死――生きながらの死に等しいのである。彼は一度そこへはいると、もう出ることができなかった。彼はあるきれいな女工と恋愛結婚をするの過失――(近代の社会ではそれも一つの過失である)――を犯してしまった。女工の根深い野卑な気質は間もなく露骨になってきた。彼女は子供を三人生んだ。彼はその大勢を養ってゆかなければならなかった。彼は知力もあり全力をつくして自分の教育を完成しようと希《ねが》っていたが、いつも貧困のために身動きがならなかった。自分のうちに潜在している力を感じながら、その力が生活難のために窒息させられていた。彼はそれに諦《あきら》めをつけることができなかった。彼はけっして一人でいたことがなかった。会計のほうだったので、野卑|饒舌《じょうぜつ》な他の同僚と共通の室で、機械的な仕事に日々を送っていた。同僚らはくだらない話にばかりふけり、上役の悪口を言いながら自分らの生活のつまらなさの腹|癒《い》せをし、彼が精神的な野心をもってるというので冷笑していた。彼はその精神的野心を一同に隠し了《おお》せるほど賢くなかったのである。それから彼は家に帰ると、住居は無趣味で悪臭がしており、妻は騒々しい平凡な女で、彼にたいして少しも理解がなく、彼は瞞着《まんちゃく》者かもしくは狂人だと見なしていた。子供たちは彼には少しも似ないで、母親に似ていた。それらのことはみな正しいことだったか。正しいことだったのか? 多くの違算や苦しみ、絶えざる困窮、朝から晩まで彼をとらえて放さぬ職務、一時間の黙想をも、一時間の沈黙をも、けっして見出し得ないあわただしさ、などのために彼は、体力消耗と神経衰弱的興奮との状態に陥ってしまった。万事を忘れつくすために彼は、近来酒の力をかりるようになったが、そのためにすっかり破滅されてしまった。――クリストフは彼の運命の悲劇に心打たれた。不完全な性格で、十分の教養と芸術的趣味とをそなえてはいなかったが、りっぱな仕事をなすようにできていて、しかも不運のために押しつぶされてしまったのである。ゴーティエはすぐにクリストフへすがりついてきた。おぼれかかった弱い者が水練家の腕に手を触れて、それにすがりつくのと同じだった。彼はクリストフにたいして、同感と羨望《せんぼう》との交じり合った気持をいだいていた。彼はクリストフを民衆の会合へ案内してゆき、革命派の首領らに会わした。しかし彼がその一流に加わってるのは、ただ社会にたいする怨恨《えんこん》からであった。なぜなら、彼はなりそこねた貴族だったから。彼は民衆に立ち交じって苦々しい苦しみを覚えていた。
 クリストフはゴーティエよりもはるかに平民的だったので――強《し》いて平民的たる必要がなかっただけになおさら平民的だったので――それらの会合が面白かった。演説をきくのが楽しみだった。彼はオリヴィエのような嫌悪《けんお》の情を覚えなかった。彼は言語の滑稽《こっけい》さをあまり感じなかった。彼にとってはどんな種類の饒舌《じょうぜつ》家もみな同じだった。彼は一般に雄弁を軽蔑《けいべつ》するふうをしていた。その美辞麗句をよく理解しようなどとは骨折らずに、話してる人と聴《き》いてる人々とを通してその音楽を感じた。演説者の力は聴衆のうちの共鳴によって百倍加されていた。初めクリストフは演説者にしか注意を払わなかった。そして演説者のある者らと近づきになりたいとの好奇心を覚えた。
 群集にもっとも多くの影響を及ぼしていたものは、カジミール・ジューシエという男だった。色の黒い蒼《あお》ざめた背の低い男で、三十から三十五までの間の年配で、モンゴリア人種めいた顔つき、痩《や》せて不幸に苦しんでるらしい様子、激烈でかつ冷たい眼、薄い髪、先を細くとがらした髭《ひげ》をもっていた。彼の力は、貧弱であわただしくて言葉と一致してることがめったにないその身振りよりも、また、大袈裟《おおげさ》な呼吸音の交じってる嗄《しわが》れた※[#「口+芻」、42−13]音的なその言葉よりも、多くは彼の人柄そのものから来たものであり、その人柄から発する確信の激しさから来たものだった。彼は人が自分と異なった考えをもつのを許し得ないらしかった。そして、彼が考えてることはまた聴衆らが考えたがってることだったので、両者は容易に理解し合った。彼は聴衆に向かって、彼らが期待してる事柄を三度も四度も十度もくり返した。憤激した執拗《しつよう》さで同じ一つの釘《くぎ》の上を打ちたたいて倦《あ》きなかった。そして全聴衆も彼の例に引き込まれて、その釘が肉の中に没し込むまでたたきにたたいた。――そういう彼自身の威圧力に加うるに、過去の経歴が起こさせる信頼や、たびたびの政治犯的処刑から来る威力があった。彼は抑圧すべからざる精力を表わしていた。しかし物をよく見ることのできる人には、彼の奥底に、積もり重なってる大きな疲労や、多くの努力のあとの嫌悪《けんお》の念や、自分の運命にたいする憤懣《ふんまん》などを、見分けることができるのだった。毎日生活力の収入以上を費やしてる人々、彼はその一人であった。幼年時代から彼は労働と貧困とに消磨《しょうま》されてきた。彼はあらゆる職業をやった、ガラス職人、鉛職人、印刷職人など。健康は害された。結核に犯された。そのため自分の主旨や自分自身にたいして、苦々しい落胆や無言の絶望などに駆られた。または非常に興奮させられた。彼のうちには思慮深い過激さと病的な過激さとがいっしょになっており、政策と激昂《げっこう》とがいっしょになっていた。彼はどうにか人並みにみずから自分を教育し上げていた。科学や社会学や自分の種々の職業について、ある種の事柄をきわめてよく知っていた。その他の多くのことはあまり知らなかった。しかし知ってる事柄についても知らない事柄についても、等しく確信をいだいていた。種々の空想的理想、正しい観念、無知な考え、実際的精神、偏見、経験、有産階級にたいする猜疑《さいぎ》的な憎悪、などをもっていた。さりとてクリストフを歓迎しないではなかった。知名の芸術家から交際を求められてるのを見て、彼の自尊心は喜ばせられた。彼は首領的な人物であって、労働者らにたいしてはなんとしても圧倒的にならざるを得なかった。完全な平等を真心から欲してはいたけれど、自分より目下の人々にたいするときよりも、目上の人々にたいするときのほうが、いっそう容易にそれを実現していた。
 クリストフは労働運動の他の首領らにも出会った。首領らの間には大なる同感は流れていなかった。共同の闘争は、実行運動の合一を――ようやくにして――きたさしめてはいたものの、心の合一をなかなかきたさしめてはいなかった。階級の区別などはまったく外見的な一時の現実にすぎないことが、よく見てとられた。古来からの種々の敵対は、ただ一時延期されて隠されてるのみであって、どれもみな存続していた。そこには北方人と南方人とがいて、たがいに根深い蔑視《べっし》をいだき合っていた。各職業はそれぞれ他の給金を嫉《ねた》み合っていて、自分こそ他よりもすぐれてるものであるという露《あら》わな感情で見合っていた。しかし大なる差異は、各個人の気質の差異であった――将来も常にそうであろう。狐《きつね》や狼《おおかみ》や角のある家畜、鋭い歯牙《しが》をもった動物や非凡な胃袋をもった動物、食うためにできてる動物や食われるためにできてる動物、それらが、偶然の階級と共同の利益とでいっしょに集まった群れの中で、通りすがりにたがいに嗅《か》ぎ合っていた。そしてたがいに相手を見分けていた。そして全身の毛を逆立てていた。
 クリストフはときどき、ある小さな料理兼牛乳店で食事をした。ゴーティエの昔の同僚で、鉄道の役員をしていたが、同盟罷業事件のために免職させられた、シモンという男の経営してる店だった。そこには産業革命主義者らがよくやって来た。五、六人づれで奥の室に陣取った。その室は狭い薄暗い中庭に面していて、中庭からは、籠《かご》にはいった二羽のカナリヤが光に向かってたえず狂うがように鳴きつづけていた。ジューシエも別嬪《べっぴん》のベルトという情婦をつれてやって来た。ベルトは強健な仇《あだ》っぽい娘で、蒼白《あおじろ》い顔色をし、紅色の帽子をかぶり、ぼんやりしたにこやかな眼つきをしていた。いつも一人の美少年を後ろに従えていた。器械職工のレオポール・グライヨーという若者で、美貌《びぼう》自慢で利口で生意気な奴《やつ》だった。彼は仲間じゅうでの耽美《たんび》家だった。無政府主義者だと自称し、有産階級にたいしてもっとも激烈な者の一人だと自称しながら、もっともいけない中流人の魂をそなえていた。数年来彼は毎朝、くだらない文学新聞の淫猥《いんわい》な頽廃《たいはい》的な小説を耽読《たんどく》していた。そのために頭が変梃《へんてこ》になっていた。快楽の想像における頭脳の精緻《せいち》さは、彼のうちで、肉体的高雅さの欠乏や、清潔にたいする無頓着《むとんじゃく》や、生活の比較的粗野なこと、などとうまく和合していた。彼は混合アルコール酒の小杯に趣味を覚えていた――贅沢《ぜいたく》な知的アルコール、不健全な富者の不健全な刺激物に。そして彼は、皮膚のうちにその享楽を有し得ないので、頭脳の中にそれを移し植えていた。そういうことをすると人は、口が回らなくなり足がきかなくなる。しかし富者と同等になれる。そして富者を憎む。
 クリストフはその若者に我慢できなかった。がセバスティアン・コカールにたいしてはもっと同情がもてた。コカールは電気職工で、ジューシエとともにもっとも聴衆から謹聴される演説者だった。彼は理論をくどくどと述べたてはしなかった。いつも話がどこへ落ちてゆくかをみずから知らなかった。しかしただまっすぐに進んでいった。まったくフランス人式だった。丈夫な快男子で、四十歳ばかりになっていて、色|艶《つや》のいい大きな顔、丸い頭、樺《かば》色の髪、大河のような髯《ひげ》、牡牛《おうし》のような首筋と声とをもっていた。ジューシエと同じくすぐれた労働者だったが、しかし笑い好きで酒好きだった。虚弱なジューシエはその無遠慮な健康を、いつも羨望《せんぼう》の眼でながめていた。そして二人は友人ではあったが、ひそかな敵意が起こりかけていた。
 牛乳店のお上さんのオーレリーは、四十五歳の親切な女で、昔は美しかったに違いないし、窶《やつ》れた今でもまだ美しかった。手に編み物をもって彼らのそばにすわり、彼らが口をきいてる間、唇《くちびる》を少し動かしながら親しい微
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