けるのと、同じくらい残忍なことである、と彼はみずから言った。そしてきれいな眼をしてるレーネットのことを想《おも》った。自分がそのきれいな眼を泣かしたことを考えた。すると堪えがたい気特になった。彼は引き返して、紙屋の家へ行った。窓はまだ半ば開いていた。彼はそっと頭を差し込んで、低い声で呼んだ。
「レーネット……。」
彼女は返辞をしなかった。
「レーネット。堪忍しておくれよ。」
レーネットの声が暗闇《くらやみ》の中から言った。
「意地悪! 私|大嫌《だいきら》いよ。」
「堪忍しておくれ。」と彼は繰り返した。
彼は口をつぐんだ。それから突然ある勢いに駆られて、前よりいっそう声低く、心乱れてやや恥ずかしげに、彼は言った。
「レーネット、ねえ、僕もお前と同じように、神様を信じるよ。」
「ほんとう?」
「ほんとうだ。」
彼はそのことをことに寛大な気持から言ったのだった。しかし言ってしまったあとでは、多少信じていた。
二人は言葉もなくじっとしていた。たがいの顔は見えなかった。戸外は美しい夜だった。不具の少年はつぶやいた。
「死んだらどんなにいいだろう!」
レーネットの軽い息の音が聞こえた。
彼は言った。
「じゃ、さよなら。」
レーネットのやさしい声が言った。
「さようなら。」
彼は軽い心地になって帰っていった。レーネットから許されたらしいのがうれしかった。そして心の奥底では、一人の娘が自分のために苦しい思いをしたことも、人の弄《なぶ》り者となってる少年には不快ではなかった。
オリヴィエは自分の隠れ家に立ちもどってしまった。クリストフもやがて彼といっしょになった。まさしく二人の場所は社会的革命運動の中にはなかった。オリヴィエはそれらの闘士の仲間にはいることができなかった。そしてクリストフもそれを欲しなかった。オリヴィエは弱者被迫害者の名によって彼らから離れた。クリストフは強者独立者の名によって離れた。しかし二人は、一人は船首へ一人は船尾へ、共に引き退きはしたものの、労働軍と社会全体とを運んでる同じ船にやはり乗っていた。自由で自分の意志を確信してるクリストフは、挑発《ちょうはつ》的な興味で、無産者らの同盟を見守っていた。民衆の酒樽《さかだる》に浸るのがうれしく、そうすると気が和らいだ。前よりいっそう快活に清新になってその酒樽から出て来た。彼はなおコカールとの交際をつづけていたし、やはりときどきオーレリーの店へ食事をしに行った。一度そこへ行くと、もうほとんど用心しなかった。夢幻的な気分のおもむくままに任した。逆説なんかを恐れはしなかった。そして話の相手どもを、その主義の荒唐|無稽《むけい》な激越な極端にまで押し進めて、意地悪い喜びを味わった。彼が真面目《まじめ》に口をきいてるかどうかはさらにわからなかった。というのは、彼は言い進むに従って熱してきて、ついには最初の逆説的な意図を見失ってしまうのだった。芸術家たる彼は他人の酔いに酔わされていった。そういう審美的感興の或《あ》る場合に、彼はふとオーレリーの奥の室で、革命歌を一つ即席にこしらえたことがあった。するとその歌はただちに繰り返されて、翌日はもう労働団体のうちに広がってしまった。彼は危い破目に立った。警察から監視された。当局と了解をもってるマヌースは、友人の一人のグザヴィエ・ベルナールから注意された。このベルナールは、警視庁の若い役人で、文学に手を出していて、クリストフの音楽に心酔してると自称していた――(というのは、享楽主義と無政府的精神とは、第三共和政府の番犬どもの間にまで染《し》み込んでいたのである。)
「あのクラフト君は、よからぬ芝居を打とうとしてる。」とベルナールはマヌースに言った。「彼は虚勢を張ってるんだ。われわれは彼のことをどう考うべきかを心得ている。しかし上のほうでは、革命の陰謀団の中から、一人の外国人を――おまけにドイツ人を――引っ捕えるのは、そう嫌《いや》なことでもないからね。それは党派の信用を失わせて嫌疑を起こさせる古めかしい手段なんだ。もし奴《やっこ》さん気をつけなかったら、われわれは余儀なく逮捕しなければならなくなるだろう。困ったことだ。注意してやりたまえ。」
マヌースはクリストフに注意した。オリヴィエはクリストフに慎重な態度を勧めた。がクリストフは彼らの意見を真面目にとらなかった。
「なあに、」と彼は言った、「僕が危険な人物でないことはだれでも知ってる。僕にも少しくらい楽しむ権利はある。僕はあの連中が好きなんだ。彼らは僕と同じように働いてるし、僕と同じように信念をもっている。実を言えば、それは同じ信念ではなく、僕らは同じ党派ではない……。がけっこうだ。そんなら戦ってやろう。僕は戦いが嫌じゃない。どうせよと言うのか? 君のように自分の殻《から》の中にじっと縮こまってることは、僕にはできない。中流人どもの中にいると息がつけない。」
クリストフほど要求多い肺臓をもっていなかったオリヴィエは、自分の狭い住居と二人の女友だちの静穏な仲間とで満足していた。とは言え、二人の女友だちの一人のアルノー夫人は、今では慈善事業に没頭していたし、も一人のほうのセシルは、子供の世話にばかり心を向けて、もう子供の話しかしないし、また子供としか話をしないで、しかもその調子は、小鳥のような子供の声音を真似《まね》て、形の定まらないその囀《さえず》りを人間の語調に直そうとする、浮き浮きしたおどけたものだった。
労働者階級の間を通りぬけるうちに、オリヴィエは二人の知人を得ていた。二人とも彼と同じく独立者であった。一人はゲランという経師《きょうじ》屋だった。気まぐれな勝手な働き方をしていたが、しかし非常に器用だった。自分の職業を好んでいて、美術品にたいして生まれつき趣味をもち、観察や勤勉や博物館見物などでその趣味を発達さしていた。オリヴィエは彼に古い家具を一つ繕ってもらったことがあった。その仕事は困難なものだったが、彼は巧みにやってのけた。多くの苦心と時間とを費やしたのだが、オリヴィエにはわずかな謝礼をしか要求しなかった。それほど彼は仕事の成功に満足していた。オリヴィエは彼に興味を覚えて、身の上をいろいろ尋ね、労働運動について彼がどう考えてるかを知りたがった。しかしゲランは労働運動については何にも考えていなかった。そんなことを気にかけていなかった。彼は労働階級に属していなかったし、またいずれの階級にも属していなかった。彼はただ彼だった。彼は書物をあまり読んでいなかった。その知的教養はすべて、パリーの真の民衆に生来そなわってる、官能と眼と手と趣味とででき上がっていた。彼は仕合わせな人間だった。そういう型の人物は、労働階級の中流者には珍しくない。そしてこの労働中流階級こそ、国民のうちのもっとも賢明なる種族である。なぜなら、手工と精神の健全な活動との間のりっぱな平衡を実現してるからである。
オリヴィエのも一人の知人は、いっそう独特な人物であった。それはユルトゥルーという郵便集配人だった。背の高い好男子で、清らかな眼、どちらも金|褐《かっ》色の口|髭《ひげ》と小|頤髯《あごひげ》、あけっ放しの快活な様子をしていた。ある日書留郵便をもってオリヴィエの室にはいって来た。オリヴィエが署名してる間に、彼は書棚《しょだな》の書冊をのぞき込みながら表題を見て回った。
「ははあ、」と彼は言った、「古典をおもちですね……。」
そして言い添えた。
「私はブールゴーニュに関する歴史の古本を集めています。」
「君はブールゴーニュの人ですか。」とオリヴィエは尋ねた。
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「豪気なブールゴーニュ人
剣を横たえ
顎髯《あごひげ》生やし
跳《は》ねよブールゴーニュ人。」
[#ここで字下げ終わり]
と郵便集配人は笑いながら答えた。「私はアヴァロンの者です。一二〇〇年ごろからの家系やなんかをもっていますよ。」
オリヴィエはちょっと気をひかれて、もっと知りたくなった。ユルトゥルーはもとより話したがっていた。彼は実際、ブールゴーニュのもっとも古い家柄の一つに属していた。先祖のうちには、フィリップ・オーギュストの十字軍に加わった者も一人あった。また他の一人は、アンリ二世の下の国務大臣だった。十七世紀からしだいに一家は衰微してきた。大革命のときに、一家は没落して民衆の潮の中に沈み込んだ。そして今ようやく、郵便集配人ユルトゥルーの正直な勤労と肉体精神の強健とによって、また己《おの》が種族にたいする彼の忠実さによって、水面に浮かび上がってきたのだった。彼の最上の楽しみは、自分の一家やその故郷に関する歴史的および家系的記録を集めることだった。休みのときには文書館へ古い書類を写しに行った。自分にわからないことがあると、古典学校やソルボンヌ大学などの懇意な学生のところへ行って説明してもらった。彼は著名な先祖のことにも眼を回しはしなかった。不幸な運命にたいする聊《いささか》の不満も示さず、笑いながら先祖のことを話した。彼は見るも愉快なほどの無頓着《むとんじゃく》な強健な快活さをそなえていた。幾世紀かの間なみなみと流れ、幾世紀かの間地下に隠れ、つぎにまた、新しい精力を地底で回収して湧《わ》き出してくる、種族の生の神秘な消長のことを、オリヴィエは彼をながめながら考えた。そして民衆なるものは、過去の河流が流れ込んで見えなくなり、また、名前は違うが往々にして同じものである未来の河流が流れ出してくる、一つの巨大な貯水池であるかのように、オリヴィエには思われたのだった。
ゲランとユルトゥルーとは、オリヴィエの気に入る人物だった。しかし彼らはオリヴィエと仲間にはなり得なかった。彼らと彼との間には多くの会話の種がなかった。少年エマニュエルはますますオリヴィエを占有していった。今ではほとんど毎晩のように彼のところへやって来た。あの不可思議な話以来、一つの革命が少年のうちに起こっていた。彼は知識欲に燃えたって読書に熱中した。書物を読み終わるごとに胆をつぶしたような心地になった。前よりいっそう愚かになったような気がした。ろくに口もきけなかった。オリヴィエはもう彼からわずかな片言|隻語《せきご》をしか引き出すことができなかった。オリヴィエから尋ねられると彼は馬鹿げた答えばかりした。オリヴィエはがっかりした。がっかりした様子を見せまいと骨折った。自分の思い違いであって少年はまったくの馬鹿だったのだと、彼は思った。少年の魂の中で行なわれてる恐ろしい熱狂的な孵化《ふか》作用は、彼の眼に止まらなかった。元来彼は拙劣な児童教育家であって、畑の草を抜いて畦《あぜ》を掘ることよりも、いい種をつかんで手当たりしだいに撒《ま》き散らすほうが得手だった。――クリストフがいるためにいっそう当惑をきたした。オリヴィエは自分の庇護《ひご》してる少年を友の前に出すのが苦しかった。その愚鈍なのが恥ずかしかった。エマニュエルはジャン・クリストフのそばではたまらないほど愚鈍になった。むっつりと黙り込んでしまった。彼はクリストフをオリヴィエに愛せられてるからとて憎んでいた。他の者が自分の師匠の心中に場所を占めることが我慢できなかった。そしてクリストフもオリヴィエも、この少年の魂をかじってる愛と嫉妬《しっと》との狂暴を夢にも知らなかった。とは言え、クリストフも以前そういう心境を経てきたのだった。しかし彼は自分と異なった地金でできてるこの少年に理解がなかった。不健全な遺伝から成ってるこの不分明な合金のなかでは、すべてが――愛も憎しみも内在的精神も――一種異なった音をたててるのだった。
五月一日が近まってきた。
不安な風説がパリーに広まっていた。労働総組合[#「労働総組合」に傍点]の虚勢家らが風説の伝播《でんぱ》に手伝っていた。彼らの新聞紙は、重大な日が来ることを告げ、労働軍を召集し、有産者のもっとも急所を、腹を、突くべき威嚇的な言葉を発していた……腹を攻めよ[#「腹を攻めよ」に傍点]と。総同盟罷業をもって有産者を脅かしていた。怖気《おじけ》だった
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