パリーの人々は、田舎《いなか》に出かける者もあれば、敵の包囲に備えるかのように食料をたくわえる者もあった。クリストフはカネーに出会ったが、カネーは自動車に乗って、二個のハムと一袋の馬鈴薯《ばれいしょ》とを家に運んでいた。彼は逆《のぼ》せ上がっていた。自分がもうどの党派に属するかをはっきり知らなかった。古い共和派になったり、王党になったり、革命派になったりしていた。過激手段にたいする彼の信仰は、まるで狂った羅針盤《らしんばん》みたいで、その針は北から南へ南から北へと一飛びに動き回っていた。公衆中では仲間の人々の空威張りにやはり調子を合わしていた。しかし独裁者でも出てくればそれにひそかに[#「ひそかに」に傍点]すがりついて赤色の幻影を一掃しかねなかった。
クリストフはそういう一般の怯懦《きょうだ》を笑っていた。何が起こるものかと信じていた。オリヴィエはそれほど安心してはいなかった。彼は有産者の生まれだったので、革命の記憶と期待とが有産階級に与える不断の小さなおののきを、いつも多少身内にもっていた。
「なあに、」とクリストフは言った、「君は静かに眠ることができるよ。革命なんかすぐに起こるものではない。君たちは皆恐れてるんだ。打撃の恐怖というやつさ……。そういう恐怖が至る所にある。有産者のうちにも、民衆のうちにも、全国民のうちに、西欧の各国民のうちにある。人はもう十分の血をもっていない。血を流すことを恐れている。四十年この方、万事が言葉の中だけで過ぎ去っている。君たちの有名なドレフュース事件だって考えてみたまえ。君たちは『死だ、血だ、殺戮《さつりく》だ!』とやかましく叫んだじゃないか……。がなんというガスコーニュの徒だ。無駄口をたたいたりインキを流したりしただけで、幾滴の血が流されたか!」
「そうばかりだと思ってちゃいけない。」とオリヴィエは言った。「血を恐れるというのは、最初血が流されたら、人の獣性が猛《たけ》りたち、文明の仮面は落ち、獰猛《どうもう》な牙《きば》をそなえた獣面が現われて、それに口枷《くちかせ》をはめることができるかどうかわからなくなるだろうという、ひそかな本能的な感情からなんだ。人は皆戦いを躊躇《ちゅうちょ》してる。しかし戦いがもし起こったら、狂暴な戦いとなるだろう……。」
クリストフは肩をそびやかした。嘘《うそ》つきの英雄を――法螺《ほら》吹きのシラノや空威張りの雛《ひよ》っ子のシャントクレルなどを――この時代が英雄としてることは、無理からぬことだ、と彼は言った。
オリヴィエは頭を振った。フランスでは法螺を吹くことが実行の始まりであることを、彼は知っていた。それでもやはりクリストフと同様に、五月一日に革命が起ころうなどとは思わなかった。あまりに言いふらされていたし、政府のほうでも警戒していた。暴動者のほうの戦術で戦いはもっと有利な時期まで延ばされるだろう、と信ぜらるる余地があった。
四月の後半に、オリヴィエは流行性感冒にかかった。彼は毎冬たいてい同じ時期にそれにかかって、古い気管支炎を再発するのだった。クリストフは二、三日彼のところで暮らした。病気はわりに軽くてすぐに直った。しかしいつものとおりオリヴィエは、熱が取れてもなおしばらくつづく心身の疲労に襲われた。長い間床に横たわって、身動きをする気にもならなかった。そして、彼の机にすわって仕事をしてるクリストフの後ろ姿をながめていた。
クリストフは仕事に専心していた。時として書き疲れると、ふいに立ち上がってピアノのところへ行った。自分が書いたものをではなく、指が動くままのものをひいた。すると不思議な現象が起こった。書いてるものは彼の以前の作を思い起こさせるような筆法で考案されてるのに、ひいてるものはまるで他人の作ででもあるかのように思われた。それは嗄《しわが》れた不整な息吹《いぶ》きの世界だった。彼の他のすべての音楽にある力強い論理とはまったく縁遠い、一つの混乱が、激しいあるいは切れ切れの不統一が、そこにあるのだった。それらの無考察な即興演奏は、意識の眼をのがれてるものであり、あたかも動物の叫びのように、思想からよりもむしろ肉体から迸《ほとばし》り出たものであって、魂の不平衡、未来の深みの中で準備されてる雷鳴を、示しているように見えた。クリストフはみずから気づかなかった。しかしオリヴィエは耳を傾け、クリストフを打ちながめ、そして漠然《ばくぜん》と不安を感じた。彼は衰弱の状態のなかで、遠くまで洞見《どうけん》する特殊な洞察力をもっていた。だれも気づかないような事柄をも見てとっていた。
クリストフは終わりの和音をひきながら、なんだか荒々しい様子で汗になってひきやめた。彼はまだ落ち着かない眼であたりを見回し、オリヴィエの視線に出会い、笑い出し、そしてまた机にもどった。オリヴィエは尋ねた。
「今のはなんだい、クリストフ。」
「なんでもないよ。」とクリストフは言った。「水をかき回して魚をひき寄せただけさ。」
「君はそれを書くつもりなのか?」
「それって、なんのことだい?」
「君が今ひいたものだよ。」
「僕は何をひいたんだろう? もう自分でも覚えていないが。」
「でも何を考えていたんだい?」
「わからないね。」とクリストフは額に手をあてながら言った。
彼はまた書き始めた。二人の室の中にはまた沈黙が落ちてきた。オリヴィエはなおクリストフをながめていた。クリストフはその視線を感じて振り向いた。オリヴィエはいっぱい愛情をたたえた眼で見守ってるのだった。
「懶《なま》け者だね!」と彼は快活に言った。
オリヴィエは嘆息した。
「どうしたんだい?」とクリストフは尋ねた。
「ああクリストフ、君のうちに、僕のすぐそばに、たくさん貴いものがあって、他人はそれを君からもらうだろうが、僕はいっこうもらえないかと思うと!」
「そんなことを君、正気なのかい? どうしたというんだい?」
「君はどんな生涯《しょうがい》を送るだろうか? どんな危険や試練を君はこれからまだ通るだろうか?……僕は君といっしょになっていたいのだ……。が僕はそんなものを少しも見ないで終わってしまうだろう。僕はぼんやり途中に立ち止まってしまうだろう。」
「ぼんやりと言えば君はぼんやりだよ。君が途中に残ろうたって、僕が君を打ち捨ててでも行くものだと、もしや思ってるんじゃないのかい?」
「君は僕のことなんか忘れてしまうだろう。」とオリヴィエは言った。
クリストフは立ち上がって、オリヴィエのそばに行って寝台に腰をおろした。衰弱の汗にぬれてるその手首を取った。シャツの襟《えり》が開けていて、痩《や》せた胸や、風にふくらんで将《まさ》に裂けようとしてる帆布のような弱々しい張りきった皮膚が、その間から見えていた。クリストフは頑丈《がんじょう》な指先で無器用に、その襟のボタンをかけてやった。オリヴィエはされるままになっていた。
「ねえクリストフ、」と彼はやさしく言った、「でも僕は生涯に非常な喜びを感じたよ。」
「まあなんという変なことを考えてるんだい?」とクリストフは言った。「君も僕と同じにしっかりしてるじゃないか。」
「ああ。」
「ではなぜそんな馬鹿なことを言うんだい?」
「悪かった。」とオリヴィエは恥ずかしがって微笑《ほほえ》みながら言った。「感冒のせいなんだ。」
「奮発しなくちゃいけない。さあ、起きたまえ。」
「今は駄目《だめ》。あとで。」
彼はじっと夢想にふけった。翌日になると起き上がった。しかしそれは暖炉の隅で夢想をつづけるためだった。
四月の天気は温和で霞《かす》んでいた。銀色の霧の生暖かい帷《とばり》越しに、緑の小さな木葉《このは》がその新芽の蕾《つぼみ》を破っており、小鳥がどこかで隠れた太陽にさえずっていた。オリヴィエは思い出の紡錘《つむ》を繰っていた。彼は子供のときのことを思い浮かべた。故郷の小さな町から、霧の中を汽車にのって運ばれていった。母が自分のそばで泣いていた。アントアネットは一人で、客車の向こう隅《すみ》にすわっていた……。細そりとした横顔が、美妙な景色が、眼の底に描き出された。美しい詩句が一人でに、その綴《つづ》りやなだらかな韻律を並べてきた。彼は机のそばにすわっていた。腕を差し伸べさえすれば、ペンを取ってそれらの詩的な幻像を書き留めることができるのだった。しかし彼には意力が欠けていた。彼は疲れていた。自分の夢想の芳香は固定させようとすればすぐに発散してしまうことを、彼は知っていた。いつもそうだった。自分の最良のものは表現されることができなかった。彼の精神は花の咲き満ちた谷間に似ていた。しかしだれもそれに接近できなかった。摘み取ろうとするとすぐに花はしおれてしまった。ただわずかな花が、幾つかの脆《もろ》い新しい花が、香ばしい臨終の息をたてる少数の詩句が、辛うじて生き残り得るばかりだった。そういう芸術上の無力が、長い間オリヴィエの最大の悩みの一つだった。自分のうちに多くの生命を感じながらそれを救い上げ得ないとは!――今では、彼ももうあきらめていた。花は人から見られずとも咲くことができる。摘むべき人の手がない野にあっても、ますます美しくなるばかりである。日向《ひなた》に夢みる花の野は幸いなるかな! 一日の光といってはほとんどなかった。しかしオリヴィエの夢想はますます花を咲かしていた。悲しいやさしいまた奇怪な物語の数々を、彼はそのころみずから自分に語っていた。それはどこからともなくやって来て、夏の空にかかってる白雲のように漂い、空中に融《と》け散り、そのあとからまた他のが現われてきた。彼はそれに満たされていた。時には空に何にもないことがあった。彼はその光の中でうっとりしていた。するとやがてまた夢想の黙々たる船が、大きな帆を張ってすべるように現われてきた。
晩には佝僂《せむし》の少年がやって来た。オリヴィエはたくさんの物語を胸にいだいていたので、微笑《ほほえ》みながら我を忘れてその一つを話してやるのだった。そういうふうにして幾度彼は、一言も発しない少年をそばにして、前方をながめながら話したことだろう。しまいに彼は少年のいることも忘れてしまうのだった……。クリストフはあるとき話の最中にやって来て、その美しさに驚かされて、初めからその話をやり直してくれとオリヴィエに願った。オリヴィエは断わった。
「僕も君と同じようだよ。」と彼は言った。「もう自分にもわからないんだ。」
「そりゃあ嘘だ。」とクリストフは言った。「君は自分の言うことなすことはいつも覚えてるフランス人じゃないか。何一つ忘れるということがあるものか。」
「おやおや!」とオリヴィエは言った。
「さあもう一度話したまえ。」
「大儀だよ。何になるものかね。」
クリストフは怒った。
「そりゃあいけない。」と彼は言った。「君は自分の思想をなんの役にたててるんだい? 君は自分のもってるものを投げ捨ててばかりいる。永久に無駄になってしまうんだ。」
「どんなものでも無駄にはならないよ。」とオリヴィエは言った。
佝僂《せむし》の少年は、オリヴィエの話の間じっとして、窓のほうを向き、ぼんやりした眼をし、顔をしかめ、敵意ある様子で、見たところ何を考えてるのかわからないふうだったが、そのとき初めて身を動かした。彼は立ち上がって言った。
「明日《あした》はいい天気だろう。」
「僕は受け合うが、」とクリストフはオリヴィエに言った、「彼だって聞いてもいなかったんだ。」
「明日は五月一日だ。」とエマニュエルは陰鬱《いんうつ》な顔を輝かしながら言いつづけた。
「あれは彼のほうの話なんだ。」とオリヴィエは言った。「おい、君、それを明日僕に話してくれたまえ。」
「くだらない!」とクリストフは言った。
翌日クリストフは、パリー市中を少し歩くためにオリヴィエを誘いに来た。オリヴィエは回復していた。しかしやはり変な倦怠《けんたい》を覚えていた。外出したくなかった。なんとなく気がかりだった。群集に交わるのが好ましくなかった。心と精神とはしっかりしていたが、肉体に力がな
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