た。――もとより彼女は、伯父を信仰に帰依させようとする陰謀の仲間だった。家の中で暗黒の精神を光明の精神が少しずつでも征服すると、それをたいへんうれしがっていた。一度ならず彼女は、老人の上衣の裏の内側に聖メダルを縫いつけたり、ポケットに数珠の一粒を忍ばしたりした。伯父のほうでは、姪《めい》の子を喜ばせるために、それに気づかないふうを装っていた。――二人の信心家が僧侶の敵たる紙屋をそういうふうに拘束してることは、古靴屋の憤慨の種ともなり喜悦の種ともなった。彼は主人を尻《しり》に敷いてる女を見ると粗野な冗談をやたらに連発するのだった。そして女の言いなり次第になってる友をひやかしていた。実を言えば、彼にはこの友をいじめるだけの資格がなかった。というのは、彼自身も二十年間、癇癪《かんしゃく》もちの倹約な女房に苦しんできたのだった。いつも老人の飲んだくれだとされて、その前に出ると頭が上がらなかった。しかし彼はその女房の噂《うわさ》をしないように用心していた。紙屋のほうは少しきまり悪がって、クロポトキン流の寛容をねちねちした舌で宣明しながら、力ない自己弁護をしていた。
 レーネットとエマニュエルとは友だちだった。小さな子供のときから毎日顔をあわしていた。エマニュエルはたまに家の中へまではいってくることがあった。アレクサンドリーヌ夫人は彼を、無信仰者の孫で汚《きたな》い古靴屋の小僧として、よく思っていなかった。けれどレーネットは、一階の窓ぎわの長い椅子の上で日々を送っていて、エマニュエルは通りがかりに窓をたたいた。そして窓ガラスに顔を押しあてながら挨拶《あいさつ》の顰《しか》め顔をした。夏間窓が開け放してある時には、窓の棟木に少し高めに両腕をもたして立ち止まった――(彼はそれを自分に有利な姿勢だと思い、しなれた態度で肩をそびやかすと自分の実際の奇形をごまかし得るものと、想像していた。)――レーネットは人の訪問に甘やかされていなかったから、エマニュエルが佝僂《せむし》なことを気に止めようともしなかった。エマニュエルは若い女を恐《こわ》がり嫌《いや》がっていたが、レーネットにたいしては例外だった。半ば化石したようなこの病気の少女は、何かしら手に触れがたい在るか無きかのもののように、彼には思えるのだった。ただ、別嬪《べっぴん》のベルトから口に接吻《せっぷん》された晩とその翌日だけは、本能的な反発の念でレーネットから遠ざかった。立ち止まりもせず顔を伏せてその家の前を通り過ぎた。そして野良犬のように、不安心な心持で遠くをうろついた。それからまたやって来るようになった。彼女はいかにも一人前の女ではなかった……。寝間着のような長い仕事着をつけてる製本女工ら――飢えた眼つきで通りがかりの人の肉体まで見通す、あの笑い好きな大娘たち――その間を印刷工場からの帰りに、できるだけ身を縮こめて通りぬけるとき、いかに彼はレーネットの窓のほうへ逃げ寄って来たことだろう! 彼は相手の娘が不具者であることをありがたがっていた。彼女に向かい合うと、自分のほうがすぐれてるような様子をすることができたし、保護者らしい様子をさえすることができた。街路の出来事を話してきかせ、自分をりっぱな地位に置いて話をした。時とすると、洒落《しゃ》れた気持になって、冬は焼栗《やきぐり》や夏は一つかみの桜実などを、レーネットへもって来た。彼女のほうでは、店先の二つのガラス器にいっぱいはいってる種々な色のボンボンを、少し彼に与えた。そして二人はいっしょに絵葉書をながめたりした。それは楽しい時間だった。彼らは二人とも、自分の幼い魂を閉じこめてる悲しい肉体のことを忘れるのだった。
 しかし二人はまた、政治や宗教などのことを大人《おとな》のように話しだすこともあった。すると彼らは大人と同様に馬鹿になった。やさしい理解は破れた。彼女は奇跡や九日|祈祷《きとう》や、紙レースで縁取った信仰画像や、贖宥《しょくゆう》のことなどを話した。彼は祖父から聞いたとおりに、そんなことは馬鹿げた虚偽なものだと言った。そしてこんどは彼が、祖父に連れて行かれた公衆の会合のことなどを話そうとすると、彼女は蔑《さげす》むようにそれを遮《さえぎ》って、その人たちはみな酔っ払いだと言った。会話は苦々しくなっていった。そして自分の身内の者のことになった。一人は相手の母親のことについて、一人は相手の祖父のことについて、祖父や母親が言ってる悪口をくり返した。つぎには自分たちのことになった。たがいに不愉快な事を言い合おうとつとめた。訳なくそれができた。彼はもっとも乱暴なことを言った。が彼女はもっとも意地悪い言葉を見つけ出すことができた。すると彼は帰っていった。またやって来ると、他の娘たちと遊んだとか、その娘たちは皆きれいだとか、いっしょに大笑いをしたとか、つぎの日曜にもいっしょに遊ぶはずだとか言った。彼女はなんとも言わなかった。彼の言ってることを軽蔑《けいべつ》するようなふうをした。それから突然怒りだして、編み針を彼の頭に投げつけ、帰ってゆけと怒鳴り、大嫌《だいきら》いだと叫んだ。そして両手に顔を隠した。彼は帰っていった。が自分の勝利を得意とする心にもなれなかった。彼女の痩《や》せた小さな手を顔からのけて、今のはほんとうのことではないと言いたかった。しかし高慢の念から、ふたたびやって行くまいとつとめた。
 ある日、レーネットの仇《あだ》は報ぜられた。――彼は印刷工場の仲間たちといっしょにいた。彼らは彼を好かなかった。なぜなら、彼は仲間はずれの態度をとっていたし、また口をきかなかったし、口をきくおりにはあまりにうますぎて、事もなげな気障《きざ》な調子で、あたかも書物、というよりむしろ新聞の論説のようだった――(彼は新聞の論説なんかをうんとつめ込んでいた。)――その日、彼らは革命だの未来の時勢だののことを話しだしていた。彼は興奮しきって滑稽《こっけい》なほどになった。一人の仲間が手荒く彼に呼びかけた。
「第一貴様なんかに用はねえ、あまり醜様《ぶざま》すぎるからな。未来の社会にはもう佝僂《せむし》なんかはいねえよ。佝僂が生まれりゃすぐに水に放り込んじまうんだ。」
 そのために彼は、雄弁の絶頂からころがり落ちた。ぎくりとして口をつぐんだ。他の者は大笑いをした。その午後じゅう彼は歯をくいしばっていた。夕方家に帰りかけた。片隅《かたすみ》に隠れて一人で苦しむために、帰るのを急いだ。途中でオリヴィエが彼に出会った。オリヴィエはその土色の顔つきにびっくりした。
「君は苦しんでるね。どうしたんだい?」
 エマニュエルは話したがらなかった。オリヴィエはやさしい言葉でしつこく尋ねた。少年は頑固《がんこ》に口をつぐんでいた。しかし今にも泣き出そうとしてるかのように頤《あご》が震えていた。オリヴィエはその腕を執って自分の家に連れていった。彼もまた、醜悪や病気にたいしては、慈恵団の尼さんみたいな魂をもって生まれたのではない人々が皆いだく、一種本能的な残忍な嫌悪《けんお》の情を覚えはしたが、それを少しも外に現わしはしなかった。
「いじめられたのかい?」
「ええ。」
「どんなことをされたんだい?」
 少年は心中をうち明けた。自分の醜いことを言った。革命は自分のためではないと仲間から言われたことを言った。
「革命は彼らのためでもないんだよ、またわれわれのためでもないんだ。それは一日の仕事じゃない。われわれのあとに来る者のために皆努力してるんだ。」
 少年は革命の来るのがそんなにおそいのを聞いてがっかりした。
「だが、無数の君のような少年に、無数の人間に、幸福を与えようと人が努力してるのを考えると、君はうれしくはないのか。」
 エマニュエルは溜息《ためいき》をついて言った。
「でも、自分自身に幸福を少しもつのもいいことでしょう。」
「忘恩者になってはいけないよ。君はいちばん美しい都会に住んでるし、いちばん驚異に富んでる時代に生きてるんだ。君は愚かではないし、またりっぱな眼をもっている。自分の周囲に見るべきものや愛すべきもののあることを、考えてみたまえ。」
 オリヴィエはそういうものを少しあげてみせた。
 少年は耳を傾けていたが、頭を振って言った。
「ええ。だけど、こんな身体の中にいつも閉じこめられてることを考えると!」
「なあに、それから出られるよ。」
「そして、その時はもうおしまいだ。」
「そんなことが君にわかるものか。」
 少年は呆気《あっけ》に取られた。唯物観は祖父の信条の一部をなしていた。そして彼も、永遠の生を信ずる者は坊主のほかにないと考えていた。彼はオリヴィエが坊主なんかではないことを知っていた。そしてオリヴィエが真面目《まじめ》に口をきいてるのかどうかを怪しんだ。しかしオリヴィエは、彼の手を執りながら長々と、自分の理想主義的な信念を話してきかせ、無数の生と無数の瞬間とは唯一の太陽の光線にすぎなくなるところの、初めも終わりもない無際限な生の渾一《こんいつ》を話してきかした。しかし彼はかかる抽象的な形式でそれを言ってきかしはしなかった。少年に話をしてるうちに知らず知らず少年の思想に調子を合わしていた。古代伝説や古い天地創造論の唯物的な深遠な想像説などが、彼の頭に浮かんできた。半ば冗談に半ば真面目《まじめ》に彼は、輪廻《りんね》の話をしたり、あたかも泉の水が池から池へ通ってゆくように魂が流れ通過する、数限りない形体の連続を話したりした。キリスト教的な追憶や二人を浸してる夏の夕の幻影なども、それに交じってきた。彼はうち開いた窓のそばにすわっており、少年は彼のそばに立っていて、たがいに手を取り合っていた。土曜日の夕だった。鐘が鳴っていた。近ごろもどってきた初|燕《つばめ》が人家の壁を掠《かす》めて飛んでいた。遠い空が影に包まれてる都会の上に微笑《ほほえ》んでいた。少年は息をこらして、年長の友が話してくれる妖精《ようせい》物語に耳を澄ましていた。そしてオリヴィエのほうでも、少年の聴《き》き手の深い注意に気乗りがして、自分の話に夢中になっていた。
 ちょうど大都会の夜に電燈が一|斉《せい》にともると同じように、暗い魂の中に永遠の炎が燃えたつ決定的な瞬間が、人生にはある。プロメテウスの火を一つの魂から迸《ほとばし》り出さしてそれを待ってる魂に伝えるには、一つの火花で十分である。この春の夕、オリヴィエの静かな話は、あたかもこわれかけたランプのような、奇形な小さい身体の中にある精神に、ふたたび消えない光を点じたのだった。少年はオリヴィエの理論のほうは少しも了解しなかったし、ほとんど聞いてもいなかった。しかしオリヴィエにとっては単に美しい物語であり、一種の譬《たと》え話であるところの、それらの伝説や形象は、彼のうちで肉をつけて現実となった。妖精物語が彼の周囲に生き上がって躍動した。そして室の窓で切り取られてる光景、街路を通ってる貧富の人々、壁を掠《かす》め飛ぶ燕、重荷をひいてる疲れた馬、薄暮の影を吸い込んでる人家の石材、光の消えかかってる蒼《あお》ざめた空――すべてそれらの外界は、突然彼のうちに接吻《せっぷん》のように刻み込まれた。それは一つの閃《ひらめ》きにすぎなかった。間もなく消え失《う》せた。彼はレーネットのことを考えた。そして言った。
「だが、ミサに行く人たちは、神様を信じてる人たちは、やはり正気の人ではないんでしょう?」
 オリヴィエは微笑《ほほえ》んだ。
「彼らもわれわれと同じように信じてるよ。」と彼は言った。「われわれは皆同じものを信じているのだ。ただ彼らはわれわれほど深く信じていないだけだ。光を見るために、雨戸を閉ざして燈火をつけようとする人たちだ。彼らは一人の者の中に神を置いている。われわれはもっとよい眼をもっている。しかしわれわれが愛してるものは、やはり同じ光だよ。」

 少年はまだガスのともっていない薄暗い通りを歩いて、家に帰りかけた。オリヴィエの話が頭の中に響いていた。眼がよくきかないからといって人をあざけるのは、佝僂《せむし》だからといって人をあざ
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