ブラウンは言った。
 彼はまだ何か尋ねたいことがありながら、相手の視線を避けて言い出しかねてるようなふうで、クリストフの袖《そで》をつかまえていた。それから彼は手を離し、溜《た》め息をつき、そこを立ち去った。
 クリストフは自分の新たな虚言に圧倒された。彼はアンナのもとへ駆けていった。心乱れて口ごもりながら、ありし次第を話してきかした。アンナは沈鬱《ちんうつ》な様子で耳を傾けて、そして言った。
「じゃあ知らせるがいいわ! 構うものですか。」
「どうしてあなたはそんなことを言うんです!」とクリストフは叫んだ。「どうしても、どうしても、私はあの人を苦しめたくない。」
 アンナは怒った。
「苦しめるのがなんです? 私も苦しんでるじゃありませんか。あの人も苦しむがいい!」
 二人は苦々《にがにが》しい言葉を言い合った。彼は彼女が自分自身ばかりを大事にしてるのをとがめた。彼女は彼が彼女のことよりも夫のことを多く考えてるのを非難した。
 しかしすぐそのあとで、もうこんなふうでは生きていられないから、ブラウンへすっかり白状しようと、彼が言い出したとき、こんどは彼女のほうで、彼を利己主義者だとし、彼の良心なんかはどうだって構わないが、ブラウンには何にも知らしてはいけないと叫びたてた。
 彼女はその冷酷な言葉にもかかわらず、クリストフと同じようにブラウンのことを多く考えていた。夫にたいする真の情愛はもっていなかったけれど、やはり夫に執着していた。二人でうち建ててる社会的|連繋《れんけい》と義務とについて、敬虔《けいけん》な尊敬をいだいていた。妻たる者は善良にしていて夫を愛すべきものだとは、おそらく考えてはいなかったろうけれど、自分は世帯の務めを残らず果たしてかつ夫に忠実でなければならないと、彼女は考えていた。自分のようにその義務を欠くことは、卑しむべきことのように彼女には思えた。
 そしてクリストフよりもよく彼女は、やがてブラウンにすべてがわかるに違いないということを知っていた。そして、クリストフの悩みを増させたくないためか、あるいはむしろ高慢の心からか、彼女がそのことをクリストフに隠しておいたのは、多少ほむべきことであった。

 ブラウンの家はきわめて外部との交渉が少なく、その中で行なわれてる通俗な悲劇はきわめて秘められていたけれど、その多少はすでに外部へ伝わっていた。
 この町で
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