っとして動かなかった……。クリストフはもう息もつけなかった。びっしょり汗をかいた。戸外では雪片が、翼のように窓ガラスを掠《かす》めていた。ある手が扉《とびら》を探りあてた。扉は開いた。そして入り口に白い姿が現われて、そっと進んできた。寝台から数歩のところで立ち止まった。クリストフの眼には何にもわからなかった。しかし彼は彼女の息を聞きとった。そして自分の心臓の動悸《どうき》も聞こえた……。彼女は寝台のそばへ来てまた立ち止まった。二人の顔はすぐそばに接していて、息が交じり合った。二人の眼は暗闇の中で相手がわからずに、たがいに捜し合った……。彼女は彼の上に倒れかかった。そして二人は一言も発せずに、沈黙のうちにひしと抱き合った……。
一時間、二時間、一世紀もたった。家の戸が開いた。アンナは二人を結びつけてる抱擁から身を脱し、寝床からすべりぬけ、来たときと同様に一言もいわずに、クリストフのもとを去った。彼女の素足が床板《ゆかいた》を小早く掠めて遠ざかってゆくのを、彼は耳にした。彼女は自分の室にもどった。ブラウンが帰ってきてみると、彼女は寝床にねていて、眠ってるようだった。そして彼女はそのままの姿で、眠りついたブラウンのそばで、狭苦しい寝床に、眼を見開き息を凝《こ》らしながら、夜通しじっとしていた。もうこれまでに彼女は、そういうふうにして幾夜過ごしたことだったろう!
クリストフも眠りはしなかった。彼は絶望に沈んでいた。彼は元来、恋愛の事柄については、ことに結婚の事柄については、極端に厳粛な考えをいだいていた。姦淫《かんいん》を興味の中心とするような芸術作家の軽佻《けいちょう》さを、憎みきらっていた。姦淫は彼に嫌忌《けんき》の情を起こさせるのだった。その気持のうちには、彼の平民的な粗暴さと精神の高潔さとが結び合わされていた。彼は他人の所有である婦人にたいしては、敬虔《けいけん》な尊敬と肉体的な厭気《いやけ》とをいっしょに感じた。ヨーロッパのある上流人らが行なってる犬のような混合生活は、彼の胸を悪くさした。夫が承知してる姦淫は、不潔きわまるものである。夫が知らずにいる姦淫は、主人を裏切り汚すために身を潜める放逸な下僕がするような、卑しむべき欺瞞《ぎまん》である。幾度か彼は、そういう卑劣を犯してる人々を見ると、容赦なく唾棄《だき》してきたことだろう! そういう不名誉な行ないを彼
前へ
次へ
全184ページ中132ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング