も心情を授かっていない人たちには人生は安楽だ、と彼は考えた。ブラウンが死んでもアンナはほとんど平気だろう、などと彼は想像して、結婚していないことをみずから祝した。われわれを憎悪の的とするような者に、あるいは(さらに悪いことには)われわれを眼中に置かないような者に、一|生涯《しょうがい》われわれを結びつける、この結婚という習慣の連鎖に比ぶれば、自分の寂寞《せきばく》もさほど悲しくないように彼には思われた。まさしくこのアンナはだれをも愛していないのだった。祗虔主義《ピエティスム》のために干乾《ひから》びてしまってるのだった。
しかるに十月の末のある日、彼女はクリストフを驚かした。――皆で食卓についていた。クリストフはブラウンとともに、町じゅうの噂《うわさ》となってるある痴情の犯罪について話していた。田舎《いなか》――において、イタリー人の二人の姉妹の娘が、一人の男に惚れ込んだ。どちらも喜んで自分を犠牲にすることができなかったので、どちらが譲歩するかという籤《くじ》を引いた。負けたほうはそのままライン河に身を投ずるはずだった。ところがいよいよ籤を引いてから、運|拙《つた》なかったほうの娘は、やすやすとその決定を承知しようとしなかった。一方の娘はその不信実さに腹をたてた。悪口の言い合いから、ついになぐり合いになり、つぎに刃物|沙汰《ざた》にまでなった。それから突然風向きが変わった。二人は泣きながら抱擁し合い、別々に離れては生きられないと誓った。それでも、二人して情人を共有するだけの諦《あきら》めはつけられなかったので、情人を殺すことにきめた。そしてそのとおりに行なった。ある夜、二人の恋人は情人を室に呼びよせた。情人は二重の幸運に得意になってやって来た。そして一人の娘が彼を両腕で熱烈に抱きしめてる間に、も一人の娘は同じく熱烈に彼の背中へ短剣を刺し通した。彼の叫び声が漏れ聞こえた。人々はやって来て、憐《あわ》れな状態になってる彼を二人の恋人の抱擁から引き離した。そして二人を捕縛した。彼女たちは他人の関係したことではないと主張し、事件の関係者は自分たちばかりであって、自分たちのものであるその男を厄介《やっかい》払いしようと心を合わせたとき以来、だれも関与すべきではないと主張した。被害者もその説を承認しがちだった。しかし法廷はそれを理解しなかった。そしてブラウンもやはり理解してい
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