なかった。
「そういうのは狂人だ。」と彼は言った。「縛りつけて、瘋癲《ふうてん》病院にでも入れるべき代物《しろもの》だ!……恋のために自殺するというのならわかってる。裏切った恋人を殺すというのもわかってる……。わかってるというのは、何も許してやるという意味ではないが、獰猛《どうもう》な遺伝の残り物として是認できる。野蛮ではあるが、理屈にかなってる。自分を苦しめる者を殺すのだから。けれども、恨みも憎しみもない恋人を、単に他にも恋してる者があるからといって殺すのは、まったく狂気の沙汰だ……。ねえクリストフ、君にもわかるだろう。」
「ふーん、僕はいつもわからないのが癖だ。」とクリストフは言った。「恋愛を論ずる者は不条理を論じてるのだ。」
 アンナは聞いてもいないかのように黙っていたが、ふいに顔をあげて、いつもの静かな声で言った。
「何にも不条理なことはありません。当然のことですわ。恋をするときには、恋人が他人のものにならないように、それを滅ぼしてしまいたくなるものです。」
 ブラウンは呆気《あっけ》にとられて妻をながめた。そしてテーブルをたたき、両腕を組んで言った。
「どこからそんなことを聞いてきたんだい?……なんだって、お前が差し出口をしようというのか。お前に何がわかるものかね。」
 アンナは顔を少し赤らめて、口をつぐんだ。ブラウンはなお言った。
「恋するときには滅ぼしたいんだって?……それこそこの上もなく馬鹿げたことだ。自分の大事なものを滅ぼすのは、自分自身を滅ぼすことだ……。まったくその反対さ。愛するときには、自然の感情として、自分によいことをしてくれる者によいことをしてやり、その人を大事にし、その人を保護し、その人に親切をつくし、何事にも親切でありたがるものだ。愛することこそ、地上の楽園だ。」
 アンナは影の中に眼をすえながら、彼を勝手に話さしておいた。そして頭を振りながら、冷やかに言った。
「人は愛してるときには親切ではありません。」

 クリストフはふたたびアンナが歌うのを聞いてみようとはしなかった。ある幻滅、もしくは何かが……恐れられた。なんであるかは彼にもよくわからなかった。アンナも同じ恐れをいだいていた。彼が演奏し始めるとき、彼女はその客間にいることを避けた。
 十一月のある晩、彼は暖炉のそばで書物を読んでいた。見ると、アンナは仕事を膝《ひざ》の上に置い
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