て来て、乱暴に縛《いまし》めを断ち切り、町の番人らを当惑さした。しかし彼らはきわめて利口だったので、その反抗者が卵のうちに窒息されない場合、それがいっそう強い場合には、あくまでそれを攻撃しようとはがんばらないで――(戦いはおぞましい爆発を招く恐れがあった)――それを買収した。画家だったらそれを美術館に入れ、思想家だったらそれを図書館に入れた。反抗者がいくら咽《のど》をからして無法なことを叫んでも甲斐《かい》がなかった。彼らは聞こえないふうを装った。いくら反抗者は自己の独立を抗弁しても、彼らの仲間に引きずり込まれた。そういうふうにして毒の効果は中和された。それは同種療法《ホメオパチー》のやり方だった。――しかしそういう場合はめったになかった。反抗者の多くは世間に現われなかった。それらの平穏な家の中に人知れぬ悲劇は潜んでいた。家族の者が、なんとも訳を言わずに静かな足取りで、河に身を投げに出かけることもあった。あるいは精神を立て直すために、半年も室に閉じこもったり、細君を療養院に入れたりした。そしてあたかも当然の事柄でも話すように、沈着な態度で平気にそのことを話していた。その沈着こそ、この町のりっぱな特徴の一つであって、苦悶《くもん》や死に面しても人々はそれを失わなかった。
 この剛毅な市民は、自己の価値を知っていたから自己にはきわめて厳格であり、他人をさほど尊敬しなかったから他人にはさほど厳格でなかった。クリストフのように町に滞在している他国人、ドイツ人の教師や政治上の亡命者などにたいしては、かなり寛大な態度をさえ示していた。なぜなら、そういう連中は彼らに無関係だったから。そしてまた、彼らは才知を愛していた。進歩した観念にもたじろがなかった。自分の息子《むすこ》どもにはそれがなんらの影響をも与えないことを知っていた。彼らはその滞在客にたいして、冷淡な温厚さを示して敬遠していた。

 クリストフはそういうことを人から力説されるに及ばなかった。彼はいらいらした神経過敏の状態にあって、心が真裸になっていた。至る所に利己主義と無関心とを認めがちであって、自分だけのうちに潜みたがっていた。
 そのうえ、ブラウンの患者範囲や、彼の細君が属してるごく狭小な一団は、ことに謹厳な新教《プロテスタント》の小社会に属していた。クリストフはこの社会では、生まれはローマ教徒であり事実は無信仰者で
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