き》が感ぜられた。細かな雨が少し降りつづけていた。
ジャックリーヌは身を震わした。
「帰りましょう。」と彼女は言った。
木陰はほとんどまっ暗だった。オリヴィエはジャックリーヌの濡《ぬ》れた髪に接吻《せっぷん》した。彼女は彼のほうに顔をあげた。そして彼は初めて、恋に燃えてる唇《くちびる》を、若い娘の小皺《こじわ》のある熱い唇を、自分の唇の上に感じた。二人は気を失わんばかりになった。
家のすぐ近くで、二人はまた立ち止まった。
「私たちはこれまでほんとに一人ぽっちでした!」と彼は言った。
彼はすでにクリストフのことを忘れていた。
二人はクリストフのことを思い出した。音楽はもうやんでいた。二人は中にはいった。クリストフはハーモニュームの上に肱《ひじ》をつき、両手に頭をかかえて、同じく過去のいろんなことを夢想していた。扉《とびら》の開く音を聞いて彼は、その夢想から覚《さ》めて、真面目《まじめ》なやさしい微笑《ほほえ》みに輝いてる親切な顔を、二人に見せた。彼は二人の眼の中に、どういうことがあったかを読み取り、二人の手を握りしめ、そして言った。
「そこにすわりたまえ。何かひいてあげよう。」
二人は腰をおろした。そして彼は、自分の心にあるすべてのことを、二人にたいするすべての愛情を、ピアノでひいた。それが済むと、三人とも黙ったままじっとしていた。やがて、彼は立ち上がって二人をながめた。彼はいかにも善良な様子で、二人よりずっと年上でしっかりしてる様子だった。ジャックリーヌは初めて、彼がどういう人物であるかを知った。彼は二人を両腕に抱きしめて、そしてジャックリーヌに言った。
「あなたはオリヴィエをほんとに愛してくれますね? 二人ともよく愛し合うでしょうね?」
二人はしみじみと感謝の念を覚えた。しかしそのあとですぐに、彼は話をそらし、笑い出し、窓のところへ行き、庭へ飛び出した。
その日以後彼はオリヴィエに向かって、ジャックリーヌの両親へ結婚の申し込みをするように勧めた。オリヴィエは断わられそうなのにびくびくして、申し込みをなしかねた。クリストフはまた、何か地位を捜せと彼を促した。ランジェー夫妻から承諾を得たと仮定しても、彼がみずからパンを得るだけの身分になっていなければ、ジャックリーヌの財産をもらうわけにいかなかった。オリヴィエも同じ考えだった。けれどもただ、金のある結婚にたいするクリストフの不当なやや滑稽《こっけい》な疑懼《ぎく》には、同感できなかった。富は魂を滅ぼすという考えは、クリストフの頭に深く根をおろしていた。あの世のことに気をもんでる富有な女に向かって、ある賢明な乞食《こじき》が言ったつぎの警句を、彼は好んで繰り返したかった。
「なんですって、奥さん、あなたは幾百万も(訳者注 幾百万の財産――幾百万の年齢)もってるのに、なおおまけに、不滅な魂をもちたいのですか。」
「女を信ずるな。」と彼は半ば冗談に半ば真面目《まじめ》にオリヴィエへ言った。「女を信ずるな。ことに金持ちの女を信ずるなよ。女は芸術を愛してるかもしれないが、しかし芸術家を窒息させるものだ。そして金持ちの女は芸術をも芸術家をも奏するものだ。富は一つの病気である。女はその病気に男よりいっそうもろい。金持ちはすべて不健全な者だ。……君は笑うのか。僕の言うことを馬鹿にするのか。なあに、金持ちに人生がわかってるものか。苛酷《かこく》な現実に密接な交渉をもってるものか。悲惨の荒々しい息吹《いぶ》きを、かせぎ出すパンや掘り返す土地の匂《にお》いを、自分の顔に感じてるものか。人間や物事を、理解し得てるものか、眼にだけでも見てるものか。……昔僕は小さいとき、大公爵の馬車に乗って、一、二度散歩に連れてゆかれたことがあった。僕が草の一葉をも知りつくしてる牧場の中を、僕が一人で駆け回ってたいへん好んでる森の間を、馬車は通っていった。ところが馬車の上からは何にも見えなかった。そのなつかしい景色も、僕を連れ出してくれてる馬鹿者どもと同じように、しゃちこばった勿体《もったい》ぶった様子に変わってしまっていた。そのとき牧場と僕の心との間には、それら四角張った魂の奴《やつ》らが介在してるばかりではなかった。足の下のその四、五枚の板、自然の上にのっかって動いてるその台、それだけでもうたくさんだった。大地を自分の母だと感ずるためには、この世の光に顔を出す赤ん坊のように、大地の腹の中に足を踏み入れていなければいけない。人間を大地に結びつけ、大地の児《こ》らをたがいに結びつける糸を、富は断ち切ってしまうのだ。そうなってなんで芸術家になれるものか。芸術家は大地の声なのだ。金持ちは大芸術家にはなれないものだ。かくも運命の恵み薄い金持ちの身分で芸術家になるには、非常な天才がなければいけない。もし芸術家になり得たとしても、なお温室の果実にすぎない。偉大なゲーテといえども、いかに努力しても甲斐《かい》がない。魂の四|肢《し》は萎縮《いしゅく》している、主要な機能は富に滅ぼされてなくなっている。君はゲーテほどの活力ももたないから、富のために蚕食されてしまうだろう。少なくともゲーテが避けていた金持ちの女からは、君はさらに蚕食されてしまうだろう。男子だけが天の災いにたいして反抗し得る。男子のうちには、生来の野性があり、人を大地に結びつける激しい仕合わせな本能の層がある。しかし女にはすっかり毒が回っていて、その毒を他人へも伝える。女は富の悪臭を喜ぶものだ。財産をもっていながらなお心が健全である女は、天才をもってる百方長者と同様に、一種の奇跡と言ってもいい……。それにまた、僕は怪物を好まない。生きるために必要な分け前より以上のものをもってる者は、一つの怪物である――他人をかじってる人間の癌腫《がんしゅ》である。」
オリヴィエは笑っていた。
「だって、ジャックリーヌが貧乏でないからといって、僕はいまさら愛しやめることもできないし、また僕にたいする愛のために、無理に貧乏にならせることもできないからね。」
「それじゃ、彼女を救うことができないとしても、せめて自分自身を救いたまえ。そしてそれはまた、彼女を救うもっともいいやり方なのだ。自分の純潔を保ちたまえ。働きたまえ。」
オリヴィエはクリストフからそういう懸念を伝えられるに及ばなかった。彼はクリストフよりもなおいっそう、反応しやすい魂をそなえていた。といって金にたいするクリストフの奇矯《ききょう》な説を、真面目《まじめ》に受け取ったわけではない。彼自身昔は富裕であったし、富を忌みきらってはしなかったし、ジャックリーヌのきれいな顔には富がふさわしいと思っていた。けれども、自分の恋愛に利害の念が交じってると人に思われることは、堪え得られなかった。彼はふたたび大学の職を求めた。けれど当分のうちは、地方の中学のつまらぬ地位以上のものは得られそうになかった。それはジャックリーヌへの結婚の贈り物としては、あまりに見すぼらしかった。彼はそのことをおずおず彼女に話した。ジャックリーヌは初め、彼の道理を認めかねた。それはクリストフから吹き込まれた誇大な自尊心のゆえだとし、そういう自尊心を滑稽《こっけい》なものだと思った。愛するときには、愛する者の財産をも貧乏をも同じ心で受けいれるのが、自然なことではないだろうか。そして、愛する者が非常に喜んで与えようとしてる、その恩恵を拒むのは、けちくさい感情ではないだろうか……。それでも、彼女はオリヴィエの意図に賛成した。それが厳粛な楽しくないものであるために、かえって彼女の心を決した。精神的に勇壮な行ないをしたいというかねての願望を、ちょうど満足さる機会であるように思えた。叔母《おば》を失ったために惹起《じゃっき》され恋愛のために激化されてる、周囲の世界にたいする傲慢《ごうまん》な反抗心のために、彼女はついに自分の性質のうちでこの不思議な熱情と矛盾するものはことごとく、否定してしまっていた。ごく純潔で困窮で幸福に輝いてる生活の理想へ向かって、自分の一身を弓のように緊張さしていた……。あらゆる障害も、将来の凡々たる境遇も、すべてが彼女にとっては喜びだった。ああそれはどんなにかりっぱな美しいことであろう!……
ランジェー夫人は、自分のことばかりにあまり気をとられていて、周囲に起こってることには大して注意を払っていなかった。このごろでは自分の健康のことばかり考えていた。始終いろんな病気を想像して気をもみ、あちこちの医者にかかっていた。どの医者も偶々に彼女にとっては救い主[#「救い主」に傍点]だった。それも二週間ばかりのことで、やがて他の医者の番となるのだった。彼女は何か月も家を離れて、ごく費用のかかる療養院へはいり、そこでばかばかしい療法を敬虔《けいけん》に守っていた。娘や夫のことをも忘れてしまっていた。
ランジェー氏は夫人ほど無頓着《むとんじゃく》ではなくて、娘の情事に気づき始めた。父の嫉妬《しっと》心から感づいたのだった。彼はジャックリーヌにたいして、世の多くの父親が娘にたいしていだいていながら自認したがらない、あの謎《なぞ》のような愛情をもっていたし、自分の血から成ってる者のうちに、自分であってしかも女である者のうちに、再生するという、あの神秘な肉感的なほとんど神聖な好奇心をもっていた。人の心のそういう機密のうちには、知らないほうがむしろ健全である多くの影と光とが存している。ランジェー氏はこれまで、小さな青年らを娘が悩殺してるのを見て、面自がっていた。そういうふうに婀娜《あだ》っぽい空想的なしかも聡明《そうめい》な――(彼自身と同じような)――娘を、彼は好んでいた。しかしながら、事件がいっそう真剣になるの恐れがあるのを見ると、気をもみだした。そして彼はまずジャックリーヌの前でオリヴィエを冷笑し、つぎには、かなり辛辣《しんらつ》にオリヴィエを悪評した。ジャックリーヌは初めそれを笑って、そして言った。
「そんなに悪くおっしゃるものではありませんわ、お父さま。今に私があの人と結婚したがるようになったら、お父《とう》さまはお困りなさるでしょう。」
ランジェー氏は大きな叫び声をたてた。彼女を狂人だとした。がそれこそ彼女をまったく狂人にならせる仕方だった。けっしてオリヴィエとは結婚させないと彼は宣言した。彼女はオリヴィエと結婚すると宣言した。覆《おお》いは裂けた。彼は彼女から無視されてることに気づいた。父親としての利己心から非常に憤慨した。もうオリヴィエにもクリストフにも二度と家へ足を入れさせないと、断然言い放った。ジャックリーヌは激昂《げっこう》した。そしてある朝、オリヴィエはだれか来たので扉《とびら》を開いてみると、令嬢が顔色を変え決心の様子で、飛び込んで来て言った。
「私を引き取ってください。両親は承知しません。でも私はあなたが望みです。私をどうにかしてください。」
オリヴィエは狼狽《ろうばい》したが、しかし感動させられて、反対を唱えようともしなかった、幸いにもクリストフがそばにいた。普通なら彼がいちばん無法だった。がそのとき彼は二人を諭《さと》した。あとでどんな醜聞が起こるか、二人はどんな苦しい目に会うか、それを説き聞かした。ジャックリーヌは怒って唇《くちびる》を噛《か》みしめながら言った。
「そうなったら、死ぬばかりですわ。」
その言葉はオリヴィエを恐れさせるどころか、かえって決心の臍《ほぞ》を固めさせることとなった。クリストフは一方ならぬ骨折りをして、二人の狂人に少し辛抱させることにした。絶望的な手段をとる前に、他の手段を講じてみる必要があった。ジャックリーヌは家に帰らなければいけなかった。そして、彼がこれからランジェー氏に会いに行って、二人のために弁護してみることにした。
奇態な弁護人だった。彼が一言いい出すや否や、ランジェー氏は外に追い出そうとした。けれどつぎには、事態の滑稽《こっけい》さに心ひかれて、それを面白がった。そしてしだいに、相手の真剣さやまっ正直さや確信に、のまれていった。けれどもなお取り合おうとしないで、
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