ふいに夜会の半ばで出て行った。そしてもう姿を見せなかった。
クリストフは狼狽《ろうばい》して帰っていった。途中で彼は、その突然の変わり方を考察してみた。ほんとうのことが少しわかりかけた。家にもどってみると、オリヴィエは彼を待っていて、平気を装った様子で、夜会の消息を尋ねた。クリストフはつまらない目に会ったことを話した。そして話してゆくに従って、オリヴィエの顔が輝いてくるのを見てとった。
「疲れはどうしたんだい?」と彼は言った。「なぜ寝なかったのか。」
「なに、よくなったよ。」とオリヴィエは言った。「もうちっとも疲れてやしない。」
「そうだ、君は、」とクリストフは、ひやかすように言った、「ほんとに行かなくてよかったよ。」
彼はやさしくまた意地悪そうにオリヴィエの顔をながめ、自分の室にはいって行き、そして一人きりになると、声を押えて、涙が出るほど、笑いだした。
「あのお転婆《てんば》娘が!」と彼は考えた、「俺《おれ》を馬鹿にしやがって! 彼奴《あいつ》までが、俺を騙《だま》しやがった。二人こっそり芝居をうってたんだな。」
それ以来彼は、ジャックリーヌに関する私情をすっかり心からもぎ取ってしまった。そして善良な牝鶏《めんどり》が専心に卵を孵《かえ》すように、二人の若い恋人の物語を育ててやった。二人が共に胸にしまってるその秘密を知ってる様子もしなければ、二人の間の仲介をもなさないで、ひそかに二人を助けてやった。
彼は、オリヴィエがジャックリーヌとともに暮らして、幸福であり得るかどうかを見るために、ジャックリーヌの性格を研究するのが自分の義務だと、真面目《まじめ》な考えをした。そしてやり方がへまだったので、趣味や徳操などについておかしな問いをかけては、ジャックリーヌをうるさがらせてばかりいた。
「ほんとに馬鹿な人だ! どうするつもりかしら。」とジャックリーヌは、腹だちまぎれに考えて、背中を向けた。
そしてオリヴィエは、ジャックリーヌがもうクリストフに構わないのを見て、晴れやかな心地がした。クリストフは、オリヴィエが幸福なのを見て、晴れやかな心地がした。彼の喜びはむしろ、オリヴィエの喜びよりもずっと大袈裟《おおげさ》に現われていた。そしてジャックリーヌは、自分よりもいっそうはっきりと二人の愛をクリストフが見てとってようとは思いがけなかったので、右のことがさっぱり腑《ふ》に落ちないで、クリストフをたまらない男だと思った心こんな卑しい煩わしい友にオリヴィエがどうして心酔してるか理解できなかった。人のいいクリストフは彼女の心を察して、彼女を怒らせることに意地悪い愉快さを覚えた。それから彼は仕事を口実にして身を退き、ランジェー家の招待を断わって、ジャックリーヌとオリヴィエとを二人きりにしておいた。
それでも彼は、将来にたいする不安を覚えないではなかった。これから成り立とうとする結婚について、自分が大なる責任を負ってると思った。そしてみずから心を痛めた。なぜなら彼は、ジャックリーヌの性質をかなり正しく見てとっていたし、多くのことを恐れていた。第一には彼女の富、教育、環境、そしてことに彼女の弱さ。彼は昔自分が親しくしていたコレットを想い起こした。もちろん、ジャックリーヌのほうがいっそう真実で直截《ちょくせつ》で熱烈であった。小さな彼女の一身のうちには、勇ましい生活にたいする憧憬《どうけい》が、ほとんど勇壮とも言える願望が、宿っているのだった。
「しかしそれだけでは望みどおりだとは言えない。」とクリストフは、好きなディドゥローの元気な冗談を思い出して考えた。「丈夫な腰をもっていなけりゃいけない。」
彼はオリヴィエに危険を知らせたかった。けれども、オリヴィエが眼に喜びをたたえてジャックリーヌのところからもどってくるのを見ると、もう話すだけの勇気がなかった。彼は考えた。
「かわいそうに……二人は幸福なのだ。彼らの幸福を乱さないことにしよう。」
オリヴィエにたいする愛情のあまり、彼はしだいにオリヴィエの信じきってる心にかぶれてきた。彼の心は安まっていった。そしてついには、ジャックリーヌはオリヴィエが考えてるとおりの女であり、また彼女自身で希望してるとおりの女であると、信ずるようになった。彼女は誠意に満ちてるのだった。彼女がオリヴィエを愛するのは、自分や自分の社会と異なった点を彼がもってるからだった。異なってるという訳は、彼は貧しかったし、自分の道徳観念に一徹だったし、人中に出て拙劣だった。彼にたいする彼女の愛はいかにも純粋で傾倒的だったので、彼女は彼と同じように貧しくなりたかったし、時としてはほとんど……そうだ、ほとんど醜くさえもなりたかった。そして、ただ自分だけとして愛されることを、自分の心が飽満しかつ渇望している愛のために愛されることを、なおいっそう確かめたかった……。ああ、ある日などは、彼がそばにいるゆえに、彼女は色|蒼《あお》ざめる心地がし両手が震えた。そして自分の激情をわざとあざけってみ、他の事柄に心を向けてるふうを装い、ほとんど彼のほうをもながめないふりをした。皮肉な口のきき方をした。しかし突然それがつづけられなくなった。自分の居室に逃げ込んだ。そして扉《とびら》をすっかり閉《し》め切り、窓掛をおろして、じっとすわったまま、両|膝《ひざ》をきっと寄せ、両|肱《ひじ》を引っ込めて腹に押しあて、腕を胸に組みながら、心の動悸《どうき》を押えた。そのままじっと思いを潜めて、堅くなり息を凝らした。ちょっと動いても幸福が逃げてゆきそうで、身動きもできなかった。そして彼女は無言のうちに自分の身体に恋を抱きしめた。
今ではもうクリストフは、オリヴィエに成功させようと夢中になっていた。母親みたいに彼の世話をやき、その身装《みなり》に注意してやり、服のつけ方をいろいろ教えようとしたり、襟《えり》飾りを――(どうしてだか)結んでやりまでした。オリヴィエは辛抱して、なされるままにしておいた。クリストフのそばを離れて階段で、その襟飾りを結び直せば済むことだった。彼は微笑《ほほえ》んでいた。しかし友の深い愛情には心を動かされた。そのうえ彼は、恋のために臆病《おくびょう》になっていて、自分に確信がなかったから、進んでクリストフへ助言を求めた。ジャックリーヌを訪問したときの模様を話した。クリストフも彼と同じように感動していた。時とすると夜半に幾時間もかかって、友の恋路を平らにする方法を考えめぐらした。
パリー近郊の、イール・アダンの森のほとりのちょっとした土地に、ランジェー家の別邸があった。この別邸の広庭のなかで、オリヴィエとジャックリーヌとは、彼らの一生に関する話を交えたのだった。
クリストフも友について行った。しかし彼は家の中にハーモニュームを見つけて、それを演奏しながら、恋人同志を平和に散歩さしておいた。――実を言えば二人はそれを望んでいなかった。二人きりになるのを恐れていた。ジャックリーヌは黙っていて、多少敵意を見せていた。すでにこの前の訪問のときオリヴィエは、彼女の様子の変わったこと、にわかの冷淡な素振り、よそよそしい酷《きつ》いほとんど反抗的なある眼つきを、感じたのだった。そしてぞっとさせられていた。彼はあえて彼女に訳を尋ねかねた。愛する者から残酷な言葉を受けはすまいかと、あまりに恐れていた。それでクリストフが遠のくのを見てぎくりとした。クリストフがそばにいてくれさえしたら、自分に落ちかかろうとしてる打撃を受けずにすみそうだった。
ジャックリーヌはやはりオリヴィエを愛してるのだった。前よりはずっと愛していた。そのためにかえって敵意を含んでる様子になっていた。先ごろ彼女がもてあそんでいた恋愛は、あんなに呼び求めていた恋愛は、今や彼女の前にあった。それが深淵《しんえん》のように足下に開けてくるのを見て、彼女は恐れて飛びしざった。もう訳がわからなかった。みずから怪しんだ。
「なぜかしら、なぜかしら? どうしたというのだろう?」
そこで彼女はオリヴィエをじっとながめた。オリヴィエはその眼つきに苦しめられた。彼女は考えた。
「この人はだれかしら?」
彼女にはわからなかった。
「どうして私はこの人を愛してるのかしら?」
彼女にはわからなかった。
「私はこの人を愛してるのかしら?」
それもわからなかった……。彼女にはいっさいわからなかった。それでも自分が熱中してることだけはわかっていた。恋にとらわれてるのだった。恋のうちに身を滅ぼしかかっていた。意志も独立も自我も未来の夢も、ことごとくこの怪物の中にのみ込まれて、自分のすべてを滅ぼしかかっていた。そして憤然と全身を引きしめていた。彼女は時とするとオリヴィエにたいして、ほとんど憎しみに近い感情を覚えた。
二人は庭のはずれの野菜畑まで行った。幕のように立ち並んだ大木がそこを芝地から隔てていた。二人は小径《こみち》のまん中を小刻みに歩いていった。径の両側には、赤黄い房《ふさ》をつけたすぐりの草むらや苺《いちご》の苗床が並んでいて、その香《かお》りが空中に満ちていた。ちょうど六月のことだったが、たびたびの雷雨に冷え冷えとした気候だった。空はどんより曇って、日の光が半ばかげっていた。低い雲が風に運ばれ一塊《ひとかたま》りとなって重々しく動いていた。その遠くの激しい風は、少しも地上に達していなかった。木の葉一枚揺るがなかった。大きな憂鬱《ゆううつ》さが事物を包み込み、二人の心を包み込んだ。そして庭の奥から、眼に見えない別邸の半ば開いてる窓から、ヨハン・セバスチアン・バッハの変ホ短調の遁走《とんそう》曲を奏してるハーモニュームの響きが聞こえてきた。二人は蒼《あお》くなり無言のままで、そこにある井の縁石に相並んで腰をおろした。オリヴィエはジャックリーヌの頬《ほお》に涙が流れてるのを見た。
「泣いていますね。」と彼は唇《くちびる》を震わしてつぶやいた。
そして彼も涙が流れた。
彼は彼女の手をとった。彼女は金髪の頭を彼の肩にもたせた。もう逆らおうとしなかった。うち負けてしまった。そしてそれは彼女にとって、どんなにか慰安だったろう!……二人は低く泣きながら、天蓋《てんがい》のような重々しい雲の移りゆく下で、音楽に耳を傾けた。音もなく流れるその雲は、樹木の梢《こずえ》をかすめるかと思われた。二人はこれまで苦しんだことどもを――またはおそらく、これから苦しむことどもを――考えていた。ある場合には、人の運命のまわりに織り込まれてる憂愁がことごとく、音楽のために浮き出されることもある!……
[#バッハの変ホ短調遁走曲の楽譜(fig42597_01.png)入る]
しばらくして、ジャックリーヌは眼を拭《ぬぐ》ってオリヴィエをながめた。そしてふいに二人は抱擁し合った。ああ得も言えぬ幸福! 敬虔《けいけん》な幸福! 切ないほど甘く深い幸福!……
ジャックリーヌは尋ねた。
「お姉《ねえ》さんはあなたに似ていらしたの?」
オリヴィエはぎくりとした。彼は言った。
「どうして姉のことを言うんですか。あなたは知ってたのですか。」
彼女は言った。
「クリストフさんから聞きましたの……。あなたはたいへんお苦しみなすったのでしょう?」
オリヴィエは頭をたれた。あまりに感動していて返辞ができなかった。
「私もたいへん苦しんだことがありますの。」と彼女は言った。
彼女は自分の味方だったなつかしい故人マルトのことを話した。どんなにか泣いたことを、死ぬほど泣いたことを、胸いっぱいになって話した。
「あなた私を助けてくださいね。」と彼女は哀願する声で言った。「私を助けて、生きさして、いい者になして、いくらかあの方のようになさしてくださいね。あのかわいそうなマルト叔母《おば》さんを、あなたも愛してくださいますわね?」
「私たちは亡《な》くなった二人の人を愛しましょう、その二人はたがいに愛し合ってるでしょうから。」
「ああお二人とも生きていらしたら!」
「生きていますよ。」
二人はたがいにひしと寄り添っていた。胸の動悸《どう
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