ないのか。」
 ジャックリーヌは顔色を変えた。そして震える声で、叔母がどういう病気であるかを尋ねた。なかなか教えてもらえなかった。けれどついに、マルトは腸の癌腫《がんしゅ》で死にかかってるのだということを知り得た。もう数か月前からの病気だった。
 ジャックリーヌは恐惶《きょうこう》の日々を送った。叔母に会うと多少安心した。仕合わせにもマルトはあまり苦しんではいなかった。やはりいつもの落ち着いた微笑を浮かべていて、それが透き通った顔の上に、内心の燈火の反映のように見えていた。ジャックリーヌは考えた。
「いえ、そんなことはない。間違いだわ。病気ならこんなに落ち着いていらっしゃるはずはない……。」
 彼女はまた小さな胸に秘めてる話をうち明け始めた。マルトはそれにたいして前よりいっそうの同情を示してくれた。ただときどき、話の最中に、叔母は室から出て行った。苦しんでる様子は少しも見せなかった。発作が過ぎ去って顔だちも平穏に返ってから、またそこに出て来た。彼女は自分の容態に関する話を厭《いや》がっていた。容態を人に隠そうとしていた。おそらく自分でもあまりそれを考えたくなかったのであろう。彼女は自分を啄《ついば》んでるとわかってるその病気を恐れていて、それから考えをそむけていた。彼女の全努力は、最後の数か月の平和な気持を乱すまいとすることだった。終焉《しゅうえん》は人が思ったよりも早かった。彼女はやがてジャックリーヌのほかはだれにも会わなくなった。つぎには、ジャックリーヌに会う時間もしだいに短くならざるを得なかった。つぎには、いよいよ別れる時が来た。マルトは、数週間以来離れたことのない寝床に横たわって、ごく静かな慰めの言葉で、その小さな友だちにやさしく別れを告げた。それから、彼女は室に閉じこもって、死んでいった。
 ジャックリーヌは幾月も絶望のうちに過ごした。彼女はその精神的|苦悶《くもん》からマルト一人によって守られていたのであるが、ちょうどその苦悶のもっともひどいときにマルトに死なれたのだった。彼女はすっかり見捨てられた心地がした。何か自分の支持となる信仰でもあればよかった。そしてその支持も欠けてはいないはずだった。いつも宗教的な務めを行なわせられていた。母もまたそれを几帳面《きちょうめん》に行なっていた。しかしそれが問題だった。母は宗教上の務めを行なっていたが、叔母《おば》のマルトはそれを行なっていなかった。比較してみざるを得なかった。子供の眼は、大人《おとな》が看過してる多くの虚偽をもとらえるものである。また多くの弱点や矛盾をも見てとるものである。ジャックリーヌが観察したところによると、母親やまたは信仰してると言ってる人々も、信仰のない者と同じように死を恐れていた。いや信仰も十分の支持ではないのだった……。なおその上に、自分自身のいろんな経験、反発心、嫌悪《けんお》の念、癪《しゃく》にさわるへまな聴罪師、などがあった……。彼女はやはり務めを行なってはいたが、別に信仰あってするのではなく、ちょうど育ちがいいからといって社交界に出てるのと同じだった。宗教も社交界と同じく、彼女には空虚なものに思われた。彼女の唯一の頼りは死んだ叔母の思い出であって、彼女はそれに包み込まれた。先ごろは幼い利己心のため閑却しがちであり、今日では利己心によっていたずらに呼びかけてるその叔母《おば》にたいして、たいへん済まない気がした。彼女は叔母の面影を理想化した。そして叔母が残してくれた深い専心的な生活の大きな実例は、彼女をしてますます、不真面目《ふまじめ》な虚偽な社交的生活を厭《いや》にならした。彼女にはその偽善的な点ばかりが眼についた。他のときなら面白く思えたかもしれないその危険な世辞|愛嬌《あいきょう》が、今は彼女に反感を催さした。彼女は何事も厭になる精神過敏の状態にあった。本心が赤裸になっていた。これまで呑気《のんき》に見過ごしてきた種々の事柄にたいして、眼が聞けてきた。そのうちのある事柄からは、血が煮えたつほど心を傷つけられた。
 彼女はある日の午後、母親の客間にいた。ランジェー夫人のもとには一人の訪問客があった――美貌《びぼう》自慢の気障《きざ》な流行画家で、いつもやって来る常客の一人だったが、大して親しいわけではなかった。ジャックリーヌは、自分がいては二人に迷惑らしい気がした。それだけにまたいっそう座をはずせなかった。ランジェー夫人は少し弱っていた。多少の偏頭痛のためか、あるいは、近ごろの婦人たちがボンボンのようによくかじってついに頭がからっぽになる、あの頭痛予防薬のためかで、頭がぼんやりしていた。それで自分の言葉にあまり気をつけていなかった。会話のなかで、その訪問客をうっかりこう呼んだ。
「ねえあなた……。」
 彼女はすぐにみずから気づいた。が彼女も客も別にまごつかなかった。そしてしかつめらしく話しつづけた。ジャックリーヌは茶の支度をしていたが、びっくりして茶碗《ちゃわん》を取り落としかけた。自分の後ろで、二人が賢《さか》しい微笑をかわしてるような気がした。振り向いてみると、二人の眼は目配《めくば》せをし合っていたが、すぐに素知らぬふうをした。――ジャックリーヌはその発見に心転倒した。自由に育てられた年若い彼女は、そういう種類の男女関係を、しばしば耳にしたりまた自分でも笑いながら話したりしたが、今やそうした母親を見出すと、堪えがたい苦しみを覚えた……。自分の母が……いや、それは他の事と同一にはならない!……彼女はいつもの誇張癖のため、極端から他の極端へ走った。それまでは何一つ疑ったことがなかった。けれどそれ以来は、すべてのことを疑った。母の過去の行ないのいろんなことを、一生懸命に細かく考察してみた。そしてもちろんランジェー夫人の軽佻《けいちょう》さは、そういう嫌疑《けんぎ》に豊富な材料を与えるものだった。ジャックリーヌはそれへさらに尾鰭《おひれ》をつけた。彼女は父のほうへ接近したかった。母より父のほうがいつも自分に近かったし、その知力にずいぶん魅せられていた。いっそう父を愛したかったし、父を気の毒がりたかった。しかしランジェーは、人から気の毒がられる必要をもたないらしかった。そして娘のひどく興奮した精神には、ある疑いが、前のよりいっそう恐ろしい疑いが起こった――父は何にも知らないのではないが、何にも知らないほうがかえって便利だと思っていて、自分だけ勝手に行動しさえすれば他のことはどうでもよいとしてるのだ、という疑いが起こった。
 するとジャックリーヌは、もうどうにもならない気がした。彼女は両親を軽蔑《けいべつ》しかねた。両親を愛していた。しかしもうこのままの生活をつづけることはできなかった。シモーヌ・アダンにたいする友誼《ゆうぎ》も、なんの助けともならなかった。この旧友の弱点を彼女は厳格に批判した。また自分自身をも容赦しなかった。自分のうちに醜いものや凡庸なものを認めて苦しんだ。そして必死となってマルトの清浄な思い出にすがりついた。しかしその思い出もしだいに消えていった。日々の波がつぎつぎにそれを覆《おお》いかぶせて、その痕跡《こんせき》を洗い去るようだった。そうなったらもう何もかも駄目《だめ》である。自分も他人と同じように泥濘《でいねい》の中におぼれてしまうだろう……。ああどうあってもこんな世界から逃げ出したい! 助けてほしい、助けてほしい!……

 かくて彼女は、いらいらした孤独の念と、熱烈な嫌悪《けんお》の情と、ある神秘な期待とのうちに、日々を過ごしながら、未知の救い主[#「救い主」に傍点]のほうへ両手を差し出してるおりに、ちょうどオリヴィエに出会ったのだった。
 ランジェー夫人は、その冬、もてはやされてきた音楽家のクリストフを、招待しないではおかなかった。クリストフはやって来たが、例によって歓心を得ようとはつとめなかった。それでもランジェー夫人はやはり彼を面白い人物だと思った。――流行児である間は何をしても構わなかった。いつでも人から面白い男だと思われるのだった。ただしそれも数か月間のことである。――ジャックリーヌはそれほど面白いと思う様子を見せなかった。クリストフがある人々から讃《ほ》められてるということだけでもすでに、彼女をあまり心服させなかった。そのうえ、彼の粗暴な態度や、強い物の言い方や、快活な様子などは、彼女の気持を害した。彼女のような精神状態では、生の喜びは卑しいものに思われた。彼女は魂の憂鬱《ゆううつ》な薄明を求めていたし、それを好んでるとみずから思っていた。クリストフのうちにはあまりに白日の光が多すぎた。けれど彼女は彼と話を交えた。そして彼は彼女にオリヴィエの噂《うわさ》をした。彼は自分の身に起こるあるゆる幸福を友にもあずからせたかったのである。そして彼がオリヴィエのことをいろいろ話すので、ジャックリーヌは、自分の思想と一致してる魂を描き出し、人知れず心を動かされて、オリヴィエをも招待してもらった。オリヴィエはすぐには承諾しなかった。そのためにかえってクリストフとジャックリーヌとの話の中で、想像のオリヴィエの姿がゆっくりとこしらえ上げられてしまった。オリヴィエがついに思い切ってやって来たときには、もとよりその想像の姿どおりだった。
 オリヴィエはやって来たけれど、ほとんど口をきかなかった。口をききたくなかったのである。そして、彼の怜悧《れいり》な眼や微笑や繊細な物腰や、彼を包み彼が放射してる落ち着きなどは、ジャックリーヌをひきつけずにはおかなかった。それとまったく反対なクリストフの様子は、オリヴィエをますます引き立たしていた。ジャックリーヌは心に萌《も》えだした感情を恐れて、態度には何一つ現わさなかった。やはりクリストフとばかり話をした。しかしそれもオリヴィエについての話だった。クリストフは友のことを話すうれしさのあまりに、ジャックリーヌがその話題を喜んでることには気づかなかった。彼はまた自分のことをも話した。彼女はそれを少しも面白いとは思わなかったが、好意上耳を貸してやった。それから様子にはそれと見せないで、オリヴィエが出て来る身の上話に話を引きもどすのだった。
 ジャックリーヌのしとやかさは、少しも疑念のない青年にとっては危険だった。クリストフはなんの考えもなく彼女に熱中した。訪問を繰り返すのがうれしかった。服装にも注意しだした。そしてよく覚えのある一つの感情がまた、そのにこやかな懶《ものう》さをあらゆる夢想に交えてきた。オリヴィエもまた思慕していた。しかも最初から思慕したのだった。そして自分が閑却されてると思って、ひそかに苦しんでいた。クリストフはジャックリーヌとの会話を楽しげに語ってきかして、彼の苦しみをさらに大きくなした。彼はジャックリーヌに好かれようとは思いもよらなかった。彼はクリストフのそばに暮らしてきたので、以前よりはいくらか楽天的になっていたけれど、やはり自分を信ずる念が乏しかった。あまりに実直な眼で自分をながめていた。自分がいつか愛されようとは思い得なかった。――いったい人が愛されるのは、魔術的な寛容な恋愛の価値のためではなくて、自分の価値のためであるとしたならば、たれかほんとうに愛されるに値する者があろうぞ?
 ある晩、彼はランジェー家へ招待されていたが、またジャックリーヌの冷淡な様子を見るのがあまりにつらいような気がして、疲れてるというのを口実にして、クリストフに一人で行ってくれと言った。クリストフは何にも察しないで、喜んで出かけていった。率直な利己心からして、ジャックリーヌを独占するの喜びばかりを考えていた。けれどそれを長く楽しむわけにゆかなかった。オリヴィエが来ないことを聞くと、ジャックリーヌはすぐに、不機嫌《ふきげん》ないらだった悲しいがっかりした様子になった。もう少しも人の気に入りたい望みも覚えなかった。クリストフの言葉に耳を傾けもせず、いい加減な返辞ばかりした。そして彼女が気のない欠伸《あくび》を噛《か》み殺してるさまを見ると、彼は屈辱を感じた。彼女は泣きたくなっていた。
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