い。恋愛においても芸術におけるがごとく、他人の言ったことを読んではいけない。自分が感ずることを言わなければいけない。何にも言うことがない前からしゃべろうとあせる者は、けっして何にも言い得ない恐れがある。
 ジャックリーヌも、多くの若い娘たちと同じく、すでに他人が経験した感情の埃《ほこり》のなかに生きていた。そのために彼女は、手は燃え喉《のど》は乾《かわ》き眼はいらついて、たえず小熱に浮かされた状態にありながら、物事を見てとることができなかった。が彼女は物事を知ってると思っていた。彼女に欠けてるのはりっぱな意志ではなかった。彼女は書物を読んだり人の言葉を聴《き》いたりしていた。会話や書物のなかで、ここかしこから断片的に、多くのことを教わっていた。自分の内心をさえ読み取ろうとつとめていた。彼女はその周囲の人々よりもましであった。彼女は皆より真実だった。
 一人の婦人が、彼女にいい影響を与えた――あまりに短い間の影響ではあったが。それは彼女の父の妹で、結婚したことのない四、五十歳の女だった。マルト・ランジェーという名前で、顔だちはきっぱりしていたがしかし陰気できれいではなく、いつも黒服をつけていた。身振りにはある窮屈そうな上品さがあった。めったに口をきかず、声もごく低かった。その灰色の眼の澄んだ目差《まなざ》しと、寂しげな口の善良な微笑とがなかったら、彼女はほとんど人目につかなかったろう。
 ランジェー家に彼女が姿を見せるのは、ときどきであって、家族きりしかいない場合だけだった。ランジェーは彼女にたいして、やや迷惑げな敬意をいだいていた。ランジェー夫人は彼女の来訪をあまり喜ばない様子を、夫に隠そうとはしなかった。それでも彼ら夫妻は礼儀上、一週間に一回はきまって彼女を晩餐《ばんさん》に招いた。そしてお義理にしてるのだという様子をあまり見せなかった。ランジェーは自分自身の話をした。彼がいつも興味をもつのは自分自身のことだった。ランジェー夫人は習慣的に微笑を浮かべながら、他のことを考えていて、いい加減な返辞ばかりしていた。ごく丁寧なやり方をもって万事都合よく運んでいった。慎み深い叔母《おば》が思ったより早く辞し去るときには、心こめたやさしい言葉まで発せられた。ランジェー夫人の美しい微笑は、特別に楽しい思い出が頭にある日には、さらに輝かしくなっていた。マルト叔母はそれらのことをみな感知した。彼女の眼をのがれる事柄はあまりなかった。兄の家で見てとられる多くの事柄に、彼女は気を悪くしたり悲しんだりした。しかし様子には少しも現わさなかった。現わしたってなんの役にたとう? 元来彼女は兄を愛していたし、一家の他の人々と同じように、兄の知力と成功とを自慢にしていた。一家の人々は、長子の大成功にたいしては自分たちの困窮などはなんでもないことだと思っていた。が彼女は少なくとも自由な批判を失わなかった。兄と同じく怜悧《れいり》であり、精神的には兄よりもいっそう鍛錬されいっそう雄々《おお》しかったので――(男まさりのフランス婦人の多くは皆そうである)――彼女は兄の心中を明らかに見てとっていた。そして兄から意見を求められると、腹蔵なく思うところを述べた。しかし兄はもうだいぶ前から意見を聞かなくなった。何にも知らないほうが用心深いことだと思い――(なぜなら彼は彼女くらいにはなんでも知っていたから)――あるいは眼を閉じてるほうが用心深いことだと思っていた。で彼女は気位を高くもって一人遠のいた。だれも彼女の内生活に気を向ける者はいなかった。またそれを知らないほうが好都合でもあった。彼女は一人で暮らし、あまり外へも出ず、友だちもごく少数で、しかも大して親しくもしていなかった。兄の関係方面や自分の才能を利用することは容易だったろうけれど、そんなことを少しもしなかった。彼女は以前、パリーの大雑誌の一つに、二、三の論説や歴史的な文学的な人物評を書いて、簡結な正確な適切な文体によって、人の注意をひいたことがあった。が彼女はそれきりにしてしまった。彼女に好意を示してくれ、彼女のほうでも知己になるのがうれしいような、幾人かのりっぱな人々がいたので、それと気持よい交際を結ぶこともできるはずだった。しかし彼女は向こうから求めてきたのにも応じなかった。また、自分の好きなりっぱなものが演ぜられてる芝居に席を取っておきながら、出かけて行かないことさえあった。面白そうだとわかってる旅行をもなし得るのに、やはり家にばかり引きこもっていた。彼女の性格は堅忍主義と神経衰弱との不思議な混和から成っていた。その神経衰弱も彼女の思想を少しも害してはいなかった。生活は害されていたが精神はそうでなかった。彼女一人だけが知ってる昔の悲しみが心のなかに跡を残していた。そしてさらに深いところに、さらに人知れず――彼女自身からも知られずに――運命の痕跡《こんせき》が、すでに彼女を啄《ついば》み始めてる内部の病苦が、存していた。――けれども、ランジェー夫妻の眼には彼女の澄みきった眼つきしか映らなかったし、その眼つきに彼らは時とすると不安を覚えた。
 ジャックリーヌは、呑気《のんき》な楽しいとき――初めはいつもたいていそうだったが、そのときには、叔母《おば》へほとんど注意を向けなかった。けれどある年齢に達すると、身体と魂とのなかに不安な作用がひそかに起こってきて、そのために彼女の一身は、幸いにも長くはつづかないがしかし死ぬような気がする馬鹿げた獰猛《どうもう》な逆上のおりおりに、苦悩や嫌悪《けんお》や恐怖や狂的な悲しみに陥ってしまった――おぼれながら「助けて!」と呼ばわることもしかねる子供のようになってしまった――そのときに、彼女は自分のそばに、こちらへ手を差し出してくれる叔母マルト一人を見出した。ああ他の人たちはいかに遠くにいたことだろう! 父も母も他人と同じで、その懇篤な利己心だけしかもたず、自分自身に満足しきっていて、人形に等しい十四歳の彼女の小さな胸の悶《もだ》えなどは、考えてくれようともしなかった。でも叔母だけはその悶えを察してくれて、憐《あわ》れみの情を寄せてくれた。叔母はなんとも言いはしなかった。ただ微笑《ほほえ》んでいた。テーブル越しに、ジャックリーヌと温情の眼つきをかわした。ジャックリーヌは叔母から理解されてるのを感じて、そのそばへ身を寄せた。マルトは彼女の頭に手を置いて、口をつぐんだまま撫《な》でてくれた。
 娘は信頼の念を起こした。胸がいっぱいになるときには、大きな友だちたる叔母をたずねていった。いつやって行っても思ったとおりに、いつも変わらぬ寛大な眼に出会い、その眼の落ち着きを多少心に注ぎ込まれるのだった。彼女は空想の恋心地をほとんど話さなかった。恥ずかしい気がした。ほんとうのものではないと自分でも感じていた。しかしいっそう真実な、ただ一つの真実な、ぼんやりした深い不安を話した。
「叔母《おば》さま、」と彼女はときおり溜息《ためいき》をついた、「私ほんとに幸福になりたいわ。」
「まあかわいそうに!」とマルトは微笑《ほほえ》みながら言った。
 ジャックリーヌは叔母の膝《ひざ》に頭をもたせ、自分を撫でてくれてるその手に接吻《せっぷん》した。
「私幸福になれましょうかしら。ねえ、叔母さま、幸福になれましょうかしら?」
「私にはわかりませんね。でもそれはいくらかお前さんしだいですよ……。幸福になろうと思えば、人はいつでも幸福になれます。」
 ジャックリーヌは信じかねた。
「叔母さまは幸福でいらして?」
 マルトは愁《うれ》わしげな微笑をもらした。
「ええ。」
「嘘《うそ》? ほんとう? 幸福でいらして?」
「お前さんはそう思いませんか。」
「思ってますわ。でも……。」
 ジャックリーヌは言いやめた。
「なあに?」
「私は幸福になりたいんですけれど、叔母《おば》さまのような幸福にはなりたくありませんの。」
「まあかわいそうに! 私もそう望んでいますよ。」とマルトは言った。
「いいえ、」とジャックリーヌはきっぱり頭を振りながら言いつづけた、「第一、私は幸福にはなれそうにありませんもの。」
「私だってそうですよ。幸福になれようとは思っていませんでした。けれど人は世間から教わって、いろんなことができるようになるものです。」
「いいえ私は、教わりたくありませんわ。」とジャックリーヌは不安げに抗弁した。「思いどおりの幸福な身になりたいんですの。」
「でもどういうふうにだかは自分にもわからないでしょう。」
「自分の望みははっきりわかっていますわ。」
 彼女は多くのことを望んでいた。しかしそれを口に出す段になると、いつも反誦《はんしょう》句のように繰り返されるただ一つのことしか見出せなかった。
「第一に人から愛されたいのですわ。」
 マルトは黙って編み物をしていた。ちょっとたってから彼女は言った。
「そしてお前さんのほうで愛していなければ、それがなんの役に立ちましょう?」
 ジャックリーヌは狼狽《ろうばい》して叫んだ。
「いいえ叔母さま、好きな人のことだけを言ってるのよ! 他のものはどうでもいいんですわ。」
「そしてお前さんがだれも愛していないとしたら?」
「まあそんなことが! いつでも、いつでも、愛するものはありますわ。」
 マルトは疑わしい様子で頭を振った。
「人はそんなに愛するものではありません。」と彼女は言った。「愛したいと思ってるだけです。愛することは、神様のいちばん大きなお恵みです。お前さんもその恵みを授かるように神様にお願いなさい。」
「そしてだれも私を愛してくれませんでしたら?」
「人が愛してくれなくても同じです。お前さんはなおいっそう幸福になるでしょう。」
 ジャックリーヌの顔は間延びて、不平げな様子になった。
「私いやですわ。」と彼女は言った。「そんなではちっとも楽しくなさそうですもの。」
 マルトはやさしく笑い、ジャックリーヌをながめ、溜息《ためいき》をつき、それからまた編み物にとりかかった。
「かわいそうに!」と彼女はまた言った。
「どうして叔母《おば》さまはいつも、かわいそうにとおっしゃるの?」とジャックリーヌは不安げに尋ねた。「私かわいそうなものにはなりたくありませんわ。ほんとに、ほんとに幸福になりたいんですわ。」
「それだから私は、かわいそうに! と言ってるのです。」
 ジャックリーヌは少し口をとがらした。しかしそれは長くつづかなかった。マルトの善良な笑顔に彼女は気が折れた。彼女は怒ったふうをしながらマルトを抱擁した。実際人はこの年ごろでは、将来の、はるかな将来の、悲しい予想から、ひそかに媚びられずにはいられないものである。遠くから見ると、不幸は詩の円光を帯びてくる。もっとも恐ろしく思われるものは、平凡な生活である。
 ジャックリーヌは、叔母《おば》の顔がいつもますます蒼《あお》ざめてゆくのに、少しも気づかなかった。ただ叔母がますます外出しなくなることは、よく見てとった。しかし彼女はそれを出嫌《でぎら》いの癖のせいだと見なして、それを笑っていた。訪れてくるとき一、二度、医者が帰ってゆくのに出会った。彼女は叔母に尋ねた。
「叔母さまは御病気でいらして?」
 マルトは答えた。
「なんでもありません。」
 しかしもう彼女は、ランジェー家の一週一回の晩餐《ばんさん》にも来なくなった。ジャックリーヌは腹をたてて、苦々《にがにが》しく小言を言いに行った。
「でもねえ、」とマルトは静かに言った、「私は少し疲れていますから。」
 しかしジャックリーヌは何にも耳に入れようとしなかった。そんなことが言い訳になるものか!
「一週に二、三時間家に来てくださるのに、そんなにお疲れなさるんでしょうか。叔母さまはもう私を愛してくださらないんでしょう。御自分の家の暖炉の隅《すみ》ばかりを大事にしていらっしゃるのでしょう。」
 けれど、彼女が家に帰って、小言を言ってやった由を得意げに話すと、ランジェーは彼女をきびしく戒めた。
「叔母《おば》さんに構ってはいけない。気の毒にも重い御病気であることを、お前は知ら
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