結婚――(彼らにとっては真の恋愛結婚)――をしたのだった。金銭は残っていたが、愛情は飛び去ってしまっていた。それでもなお多少の火花が消えずにいた。なぜならどちらの愛欲もきわめて強烈だったから。しかし彼らは大袈裟《おおげさ》な貞節観念を鼻にかけてるのではなかった。各自に自分の仕事や快楽を追い求めていた。そして、利己的な気ままな抜け目ない好伴侶《こうはんりょ》として、よく気が合っていた。
彼らの娘は、二人の間の連繋《れんけい》であるとともに、暗黙な競争の種となった。二人とも娘を嫉妬《しっと》深いほど愛していた。どちらも娘のうちに、好ましい欠点をそなえてる自分の姿を見出し、その欠点は娘の優美のために理想化されて眼に映った。そしてたがいに娘を奪い取ろうと内々努力した。娘のほうでは、全世界が自分のまわりに引きつけられてると信じがちな子供特有のずるい無邪気さをもって、そのことを感ぜずにはいなかった。そしてそれにつけ込んだ。両親の間にたえず愛情のせり上げを起こさした。どんなわがままでも、一方から拒まれるときっと他方から承知された。すると一方は先を越されたことに困って、他方が与えた以上のものをすぐに与えるのだった。かくて娘はひどく甘やかされた。ただ仕合わせなことには、彼女は性質中に何にも悪いものをもってはいなかった――利己心を除いては。ただしこの利己心は、すべての子供にほとんど共通なものではあるが、あまりに大事にされる金持ちの子供にあっては、障害のないことからくる病的な形をとるものである。
ランジェー夫妻は、娘を鍾愛《しょうあい》しながらも、自分一身の安逸を少しも犠牲にしたがらなかった。一日の大半は娘を一人放っておいた。それで娘は、夢想する時間に少しも不足を覚えなかった。彼女は早熟であるうえに、自分の前でされる不謹慎な話――(人々は彼女に少しも遠慮をしなかった)――からすぐに啓発されて、六歳になったときにはもう、夫や妻や情人を人物とするちょっとした恋物語を、人形に話してきかせるようになった。もとより彼女のほうに悪心は少しもなかった。けれどそれらの言葉の下にある感情の影をちらと見た目から、人形へ話すのはふっつりよしてしまって、その詩を自分自身だけのものとした。彼女のうちには無邪気な情欲の素質があって、それが地平線の彼方《かなた》はるかな眼に見えない鐘のように、遠くで鳴り響いていた。ときどき風がさっとその片影を吹き送って来た。それがどこから出て来るかはわからないが、それに包み込まれて、顔が真赤《まっか》になる心地がし、恐《こわ》さとうれしさとで息もつけなかった。なんのことだか訳がわからなかった。それにまた、それは来た時と同じようにふっと消えてしまうのだった。もう何にも聞こえなかった。かすかなそよぎ、それとわからないほどの余韻が、青い空気中にうっすり残ってるのみだった。けれど、かなた山の向こうにそれがあること、そこへ行かなければならないこと、できるだけ早く行かなければならないこと、それだけはわかっていた。そこに幸福があるのだった。ああそこまで行けさえしたら!……
そこへ達するのを待ちながら彼女は、やがて見出そうとするものにたいして、不思議な想像をめぐらしていた。彼女の少女としての知力にとっての重大事は、それを推察するということだったのである。彼女にはシモーヌ・アダンという同年配の友があって、この重大な問題についていっしょに話し合った。自分の知識や、十二年間の経験や、聞きかじった話や、ひそかにぬすみ読んだ事柄などを、たがいにもち寄った。そして二人の少女は、自分たちの未来を隠してる古壁の石にしがみつき、爪先《つまさき》で伸び上がって、その向こうを見ようとした。しかしどんなことをしても、壁の割れ目からいくらのぞこうとしても、まったく何にも見てとれなかった。彼女らの性質は、無邪気と詩的な放縦《ほうしょう》とパリー的な皮肉との混和したものだった。みずから知らずに大袈裟《おおげさ》なことを口にしながら、ごく単純な事柄で自分の世界を組み立てていた。ジャックリーヌは、だれからもとがめられずに、方々を捜し回り、父のあらゆる書物をこそこそのぞいてみた。が幸いにも彼女は、ごく清らかな少女の潔白さと本能とによって、悪いものに出会っても汚されなかった。多少露骨な場面や言葉に接しただけで、もう厭《いや》になってしまった。すぐさまその書物を手放して、卑しい連中のまん中を通りすぎた。あたかも、きたない水たまりの中にはいってびっくりしてる――しかも泥水《どろみず》のはね返りを少しも受けない――猫《ねこ》のようなものだった。
彼女は小説へは心ひかれなかった。小説はあまりにはっきりしていてあまりに干乾《ひから》びていた。感動と希望とで彼女の胸を波打たせるものは、詩人の書物だった――言うまでもなく恋愛の詩集だった。それは少女の心にやや近かった。事物を見て取りはしないで、欲望と愛惜の三稜鏡《プリズム》を通して想像していた。ちょうど彼女のように、古壁の割れ目からのぞいてるらしかった。しかし実は多くのことを知っており、およそ知るべきことはみな知っているのであって、ただそれをごくやさしい神秘的な言葉で包んでるのだった。それで、非常に注意してその抱衣を解きさえすれば、見出せる……見出せる……はずだった。が彼女は何にも見出さなかった。けれどいつも見出しかけてはいた……。
二人の好奇な少女は少しも飽きなかった。かすかにおののきながら低い声で、アルフレッド・ド・ミュッセーの詩句やシェリー・プリュドンムの詩句を繰り返した。その詩の中に敗徳の深淵《しんえん》が想像された。彼女らはそれを写し取り、その一節の中の隠れた意味を尋ね合った。時とするとなんの意味もないことがあった。そしてこの潔白な厚顔な十三歳の小娘たちは、恋愛について何にも知らないくせに、半ば冗談に半ば真面目《まじめ》に、恋と快楽とを論じ合った。そして教室では、教師――ごくやさしい丁寧な年とった小父《おじ》さん――の温情に満ちた眼をぬすんで、つぎのような詩句を、その教師がある日見つけて息がつまるほどびっくりした詩句を、帳面に書き散らした。
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おう吾《われ》をして、吾《われ》をして、汝《なんじ》をかき抱《いだ》かしめよ、
汝の接吻《せっぷん》のうちに、物狂わしき恋を吸わしめよ、
一滴また一滴と、幾久しく!……
[#ここで字下げ終わり]
彼女たちの通ってる学校は、ごくはやっていた。教師はみな大学の先生だった。彼女たちはそこに感傷的な憧憬《どうけい》心の使い道を見出した。少女らのほとんどすべては、自分の教師に恋していた。教師が若くてさほど醜くなければ、彼女らの心を奪うに十分だった。彼女らは先生からよく思われようとして、天使のようになって勉強していた。試験のときに、先生から悪い点をもらうと涙を流した。先生から讃《ほ》められると、赤くなったり蒼《あお》くなったりして、感謝に満ちた婀娜《あだ》っぽい流し目を注いだ。先生から一人別に呼ばれて、助言されたり称賛されたりすると、それこそ有頂天だった。彼女らの気に入るためには秀才たるの必要はなかった。体操のときに、その教師から両腕に抱かれてぶらんこに乗せてもらうと、ジャックリーヌは熱くのぼせてしまった。そしていかに一生懸命の張り合いが起こったことだろう! いかに激しい嫉妬《しっと》の炎が燃やされたことだろう! そのぶしつけな敵から教師を取りもどさんがために、いかにつつましい甘っぽい眼つきが注がれたことだろう! 講義のときに、彼が口を開いて話し出すと、それを書き取るためにペンや鉛筆があわただしく動かされた。彼女らは理解しようとはつとめなかった。一言も書き落とさないことが大事だった。そして皆が、一生懸命に書き取りながらも、偶像となってる教師の顔つきや身振りを一々、物珍しげな眼でひそかにうかがってる間に、ジャックリーヌとシモーヌとは小声で尋ね合った。
「先生が青い玉散らしの襟《えり》飾りをおつけなすったら、よくお似合いなさるでしょうね。」
それからまたうれしいものは、着色石版画、空想的な浮華な詩集、詩的様式の版画、――昔や今の、俳優、音楽家、著作家、ムーネ・シュリー、サマン、ドビュッシー、などにたいする愛、――音楽会や客間や街路で、見知らぬ青年らと見かわす眼つき、それからすぐに頭の中に描かれる情熱、――不断の欲求に駆られて、たえず想《おも》いを焦がしていたり、いつも恋愛や恋愛のきっかけでいっぱいになっていること、それらのことを、ジャックリーヌとシモーヌとはみな打ち明け合った。けれどそれは、彼女らが大したことを感じてはいない明らかな証拠だったし、また、決して深い感情をいだかないための最上の方法でもあった。けれどその代わりに、それは慢性の病状となってきた。彼女らはみずからそれをあざけってはいたが、大事に養っていた。二人はたがいに刺激し合っていた。シモーヌのほうは空想的であり用心深くて、大それたことをより多く想像しがちだった。ジャックリーヌのほうは真面目《まじめ》であり熱烈であって、大それたことをより多く実行しやすかった。彼女は幾度もたいへんよからぬことを行ないかけた……。けれど彼女はそれをほんとうに行ないはしなかった。青春期にはたいていそうしたものである。生涯《しょうがい》のある時期においては、人は狂気|沙汰《ざた》の小動物となって――(吾人《ごじん》も皆一度はそうであった)――あるいは自殺のうちに、あるいは見当たりしだいの異性の腕のなかに、将《まさ》に身を投ぜんとするものである。ただ仕合わせにも、たいていの者はそこで立ち止まる。ジャックリーヌも、見たか見ないかの男に向かって熱烈な手紙をいくらも書き散らした。しかしどれも出さなかった。ただ一つ心酔しきった手紙を、自分の名を書かずに、ある無情な狭量な醜い卑しい利己的な批評家に送った。彼が書いた三、四行の文のなかに感傷的な宝を見出して、それで恋しくなったのだった。彼女はまたある一流の俳優に想《おも》い焦がれた。住居が彼女の家の近くだった。その門前を通ることに彼女はみずから言った。
「はいってみようかしら。」
そしてあるとき彼女は大胆にも、彼が住んでる階まで上がって行った。しかし一度そこまでゆくとすぐに逃げ出した。どんなことを言ったらよいか? いや言うべきことは何一つなかった。彼を少しも恋してるのではなかった。自分でもそれはよくわかっていた。彼女のそういう無分別さの半ばは、みずから好んでやってる欺瞞《ぎまん》だった。他の半ばは、恋したいという楽しい馬鹿げたいつまでも失《う》せない欲求だった。ジャックリーヌはごく怜悧《れいり》だったから、それをみずから知らないではなかった。それでもやはり無分別にならざるを得なかった。みずからよく知ってる狂人は二人分の狂人に相当する。
彼女は社交界に多く顔を出した。彼女に魅せられてる多くの青年らに取り囲まれ、一人ならずの者から恋されていた。しかし彼女はそのだれをも愛しないで、皆とふざけていた。自分がどんなに人を苦しめてるかは顧みもしなかった。美しい娘は恋愛を残忍な遊戯となすものである。人に恋されるのは至って当然のことだと見なしていて、自分の愛する者にたいする場合を除いては、何にも負い目がないと思っている。自分を恋してる男はすでにもうそれだけで十分幸福だと、好んで思いがちである。ただ彼女の弁護となる一事は、彼女は一日じゅう恋愛のことを考えてはいるけれど、恋愛のなんたるやを少しも知っていないことである。温室的な空気の中に育った社交界の若い娘は、田舎《いなか》の娘よりも早熟だと人は想像しがちであるけれど、事実はその反対である。読書や会話は、彼女のうちに恋愛の妄想《もうそう》を作り出して、それが無為閑散な生活のうちでは、しばしば恋愛狂に似寄ってくることが多い。時とすると彼女は、一編の物語の筋を前から読んでいて、その言葉をすっかり暗誦《あんしょう》してることさえある。したがって彼女はそれを心には少しも感じな
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