皮肉な言を放ってやった。クリストフはそれが聞こえないふうをした。しかしさらに鋭い矢が放たれると、言葉を途切らして、無言のうちに反抗した。そしてまた言いつづけた。あるときには、テーブルを拳固《げんこ》でたたいて言った。
「私があなたを訪問して来たのは、私にとってはあまり愉快なことでないと思っていただきましょう。あなたのある種の言葉を取り上げないためには、私はどんなにか我慢してるんです。しかし私はあなたにお話しするの義務を帯びてると思っています。そしてお話ししてるのです。私が自分自身を忘れてるのと同じに、あなたもこの私を忘れてくだすって、私の申すことをよく考えて下さい。」
 ランジェー氏は耳を傾けた。そして自殺の意図を聞くと、肩をそびやかして笑う様子をした。しかし彼は心を動かされた。彼は物わかりがよかったから、そういう嚇《おど》かしを冗談と見なしはしなかった。若い娘は恋に駆られると狂気|沙汰《ざた》になることを、考慮に入れなければならないと知っていた。昔、彼の情婦の一人で、笑い好きな気の弱い娘があって、その大袈裟《おおげさ》な言葉をとうてい実行し得はすまいと彼が思ってるうちに、彼の眼の前でピストルを一発みずから自分の身に放った。彼女は即死しはしなかった。がその光景は常に彼の眼にありありと浮かんだ……。こういう狂気な娘どもはどんなことをしでかすかわかったものではない。彼は胸にどきりとした……。
「死にたけりゃ、勝手に死ぬがいいさ。気の毒の至りだ。馬鹿者め!」とは言え、いろいろ手段をめぐらし、承諾を装って時間を延ばし、穏やかにジャックリーヌをオリヴィエから引き離すことも、彼にはできるはずだった。しかしそうするには、手にあまるほどの心にもない労力を費やさなければならなかった。そのうえ彼は気が弱かった。ジャックリーヌへ「いけない」と激しく言ったというだけで、今ではもう、「よろしい」と言ってやりたい気になっていた。要するに、人生のことはだれにもわかるものではない。娘のほうがおそらく道理かもしれなかった。肝要なことは愛し合うということである。オリヴィエはしごく真面目《まじめ》な青年で、おそらく才能があるのかもしれないということを、ランジェー氏は知らないでもなかった……。彼は承諾を与えた。

 結婚の前夜、二人の友は夜ふけまでいっしょに起きていた。なつかしい時期の最後の時間を少しも無駄《むだ》にしたくなかった。――がそれはすでにもう過去であった。あたかも、汽車の出発前の待つ間が長引くとき、停車場の歩廊《プラット・ホーム》の上でかわす、あの悲しい別れの言葉に等しかった。あくまでも居残り、見かわし、言葉を交えようとする。しかし心はもうそこにない。友はすでに出発してしまってるのだ……。クリストフは話をしようとつとめた。けれど、オリヴィエのうわの空の眼つきを見ると、中途で言葉を切って、微笑を浮かべながら言った。
「君の心はもう遠くに行ってるんだね。」
 オリヴィエは当惑して弁解した。友と最後の親しい時を過ごすさいに、心を他処《よそ》にしてたことを見て、みずから悲しくなった。しかしクリストフは彼の手を握りしめた。
「さあ遠慮するなよ。僕もうれしいのだ。夢想にふけるがいいよ。」
 二人は窓ぎわにじっと相並んで肱《ひじ》をつき、暗い庭をながめていた。ややあって、クリストフはオリヴィエに言った。
「君は僕から逃げようとしてるんだろう。これから僕の手を脱すると思ってるんだろう。そして今ジャックリーヌのことを考えてるんだね。だが僕は君をとっつかまえてみせるよ。僕もジャックリーヌのことを考えてるんだ。」
「なあに、」とオリヴィエは言った、「僕は君のことを考えてたんだ、しかも……。」
 彼は言いやめた。
 クリストフは笑いながら、その文句を終わりまで言ってやった。
「……しかも、それでたいへん悲しい心地になってたのだ……。」

 クリストフは結婚式のために、りっぱな、ほとんど優美なとも言えるほどの身装《みなり》をした。宗教上の式はなかった。オリヴィエは宗教に無関心だったし、ジャックリーヌは宗教に反感をもってたので、共にそれを望まないのだった。クリストフは区役所の式のために交響曲《シンフォニー》の一節を書いておいた。けれど法律上の結婚式がいかなるものであるかを知ると、最後の間ぎわにそれを引っ込めてしまった。彼はそういう儀式を滑稽《こっけい》だと思ったのだった。それらの儀式を信ずるには、信仰と自由とをともに失っていなければいけない。真のカトリック信者があえて自由思想家になる場合には、それは戸籍吏を牧師たらしむるためにではない。神と自由意識との間には、国家という宗教を入れる余地は存しない。国家はただ人を登録するだけであって、結合させるものではない。
 オリヴィエとジャックリーヌとの結婚は、クリストフへその決心を後悔させるほどのものではなかった。オリヴィエは、区長が新夫婦や富裕な一家や勲章を帯びてる列席者らに、重々しく世辞を振りまいてるのを、よそよそしい皮肉な様子で聞いていた。ジャックリーヌのほうは聞いてもいなかった。彼女の様子をうかがってるシモーヌ・アダンに、こっそり舌を出してみせていた。結婚することなんかは「自分にとってはまったくなんでもない、」とシモーヌに誓っておいたのであって、まさにその誓いどおりにやっていた。結婚してるのは自分だともほとんど思っていなかった。結婚ということが考えるとおかしかった。他の人々は列席者らを目標に置いていた。列席者らはじろじろ様子をぬすみ見ていた。ランジェー氏はもったいぶっていた。娘にたいする愛情はいかにも真実ではあったけれど、彼がおもに気を使ってることは、通知をもらした人がありはすまいかと、一座の人々を見調べることだった。ただクリストフだけが感動していた。彼一人が、両親であり結婚者であり区長であった。彼のほうを見向きもしないオリヴィエを、じっと見守ってやっていた。
 その晩、若夫婦はイタリーへ出発した。クリストフとランジェー氏は停車場まで送っていった。見ると二人は、残り惜しさのない快活なふうで、今か今かと出発を待ちわびてる気持を隠さなかった。オリヴィエは青春の年ごろのような様子だったし、ジャックリーヌは小娘のような様子だった……。ああかかる出発の、やさしい憂愁さよ! 父は自分の娘が、他人によって、そしてなんのためにか……そして永久に自分のもとから遠くへ、連れ去られるのを見ては、うら悲しく思うのである。しかし彼らは、歓《よろこ》ばしい解放の感情をしか覚えない。もはや人生にはなんらの障害もない。もはや何物も彼らを引き止めない。あたかも彼らは最高峰に達してるがようである。今や死ぬこともできるし、すべてが自分の手中にあるし、何も恐るべきものはない……。その後になって、人はそれが一つの宿場にすぎなかったことに気がつく。道はまたつづいて、山のまわりを回る。そして第二の宿場に達する者はごく少数である……。
 汽車は夜の中へ二人を運び去った。クリストフとランジェー氏とはいっしょに帰っていった。クリストフは意地悪げに言った。
「これでもう私たちは一人者になりました。」
 ランジェー氏は笑いだした。二人は別れの挨拶《あいさつ》をかわして、それぞれ自分の家へ向かった。二人とも切なかった。しかしそれは悲しみと安慰との混ざり合った感情だった。クリストフは自分の室に一人ぽっちで考えた。
「俺《おれ》のよき半分が幸福でいるのだ。」
 オリヴィエの室は少しも様子が変わっていなかった。彼が旅から帰ってきて新しく住居を構えるまでは、その道具や記念品をクリストフのところに残しておくことが、二人の間の約束だった。彼はなおそこにいるかのようだった。クリストフはアントアネットの肖像をながめ、それをテーブルの上に置き、それへ向かって言った。
「ねえ、あなたも満足ですか。」

 彼はしばしば――しばしばすぎるほど――オリヴィエへ手紙を書いた。オリヴィエからはあまり手紙が来なかった。来た手紙も素気《そっけ》ないものであって、しかもしだいに気乗りのしないものとなっていった。彼はそれに力を落としたが、しかし当然のことだと思い直した。そして二人の友情の未来については心配していなかった。
 彼は孤独にまいりはしなかった。それどころか、自分の趣味に相当するだけの孤独を得られなかった。彼はすでにグラン[#「グラン」に傍点]・ジュールナル[#「ジュールナル」に傍点]の保護を苦しみ始めていた。アルセーヌ・ガマーシュは、自分が発見するだけの労をとってやった光栄にたいしては、一つの所有権を有してると信じがちだった。ちょうどルイ十四世が自分の玉座のまわりにモリエールやル・ブランやリューリなどを集めていたように、彼もそれらの光栄が自分の光栄に結合するを当然だと思っていた。クリストフは、そのエジルへの賛歌[#「エジルへの賛歌」に傍点]の作者のほうがまだしも、自分のグラン[#「グラン」に傍点]・ジュールナル[#「ジュールナル」に傍点]の保護者に比ぶれば、芸術にたいしてさほど専横な邪魔者でもないと考えた。なぜなら、この新聞記者はルイ帝王と同じく芸術が少しもわかっていないくせに、やはり同様に固定した芸術観をいだいていた。自分の好まないものには存在することを許さなかった。それをいけない有害なものだときめてしまい、公衆の利益のためにそれを滅ぼしていた。いったい、教養のない悪く開けたそれらの実務家らが、金銭と新聞とによって、ただに政治界のみでなく精神界をも支配せんとして、首輪や餌食《えじき》とともに小屋を提供し、もしくはその拒絶に会って、自分の同勢となしてる多数の馬鹿者どもをけしかけるのは、奇怪な恐るべき光景なのである。――クリストフは勝手に馴養《じゅんよう》されるような人間ではなかった。馬鹿な奴が自分に向かって、音楽上なすべきこととなすべからざることとを言ってきかせようとするのは、きわめて不都合なことだと思った。そして、芸術は政治よりも多くの準備を要すると、彼に諭《さと》してやった。それからまた、その新聞のおもな社員の一人がこしらえてる、社主の推薦づきのつまらない筋書きを、音楽にしてくれと申し込まれたが、彼はそれを無遠慮な言葉で断わってしまった。それは、彼とガマーシュとの関係のうちに、最初の冷たいものを投げ込んだ。
 クリストフはそんなことを意に介しなかった。彼は無名の域から脱すると、またすぐに無名の域にもどりたがっていた。「他人のうちに人を滅ぼすあの白日の光にさらされ[#「他人のうちに人を滅ぼすあの白日の光にさらされ」に傍点]」てる自分自身を、彼は見出したのだった。あまりに多くの人々が彼に干渉していた。彼はゲーテの言葉を考えてみた。

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 作家が一つの名作によって自分を認めさせるときには、公衆は第二の名作を作ることを彼に妨げようとする……。才能ある者も考え込んでいるうちには、世間の喧騒《けんそう》のなかに心ならずも引き込まれる。なぜかなれば、世間の人々は各自に、その才能の一片を自分のものになし得ると考えてるからである。
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフは扉《とびら》を閉ざした。そして自分の家のなかで、数人の旧友と接近していった。彼は多少閑却していたアルノー夫妻の家庭にまた出入りした。一日の一部を一人きりで暮らしていたアルノー夫人は、他人の悲しみを思ってやるだけの時間をもっていた。オリヴィエが出発したのでクリストフのところがさぞ寂しくなったろうと考えていた。そして内気なのを押えて彼を夕食に招いた。あえてする気があったら、ときどき家の中を見に行って上げようと申し出たかもしれなかった。しかし彼女には勇気がなかった。そしてもちろんそのほうがよかった。なぜなら、クリストフは人に世話をやかれることが嫌《きら》いだったから。でも彼は夕食の招待を承諾した。そして晩にはきまってアルノー夫妻のところへ行く習慣がついた。
 彼が出入りしてみると、その小さな家庭は相変わらず平和で、前よりはいっそう灰
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