の憂鬱《ゆううつ》な少女が――(彼はその後かつて彼女のことを考えたことはなかったが、今になってその姿が眼の前に浮かんできた。身体がずんぐりしていて、頭が大きく、まっ白なほどの金褐色《きんかっしょく》をした頭髪と眉毛《まゆげ》、ごくうすい青色の眼、広い蒼白《あおじろ》い頬《ほお》、太い唇《くちびる》、多少|脹《は》れた顔、赤い小さな手をしていた)――その少女が、彼の近くへやって来て、立ち止まって親指を口にくわえ、彼の泣くのをながめた。それから彼の頭に手をのせて、ちょうど同じような同情深い微笑を浮かべながら、おずおずと、早口で彼に言った。
「泣くんじゃないのよ!……」
するとクリストフはもう辛抱できなくて、彼女の胸に顔を押し当てながら、わっと泣きだした。彼女はやさしい震え声で繰り返した。
「泣くんじゃないのよ!……。」
それから数週間後に、彼女は死んでしまった。あのときにはもう彼女は死の手にとらえられていたのであろう。……その少女のことを、どうして彼は今思い出したのだろうか? 遠いドイツの町の取るに足らぬ平民の娘である、その忘れられた死んだ少女と、今彼をながめてる貴族の若い夫人との間には、なんらの関係もないのだった。しかし、だれにとってもただ一つの魂しか存在しない。無数の人々は、あたかも天空を運行するもろもろの世界のように、たがいに異なってるように見えはするけれど、数世紀隔たってる人々の心のうちにさえ、同時に輝き出すところのものは、愛の同じ光である。クリストフは、自分を慰めてくれた少女の、色|褪《あ》せた唇《くちびる》の上に過ぎるのを見てとったあの輝きを、ふたたび見出したのだった……。
それはほんの一瞬間のことだった。人波が室の入り口をふさいで、向こうの広間の光景はクリストフの眼にはいらなくなった。彼は急いで、鏡に写らない影のほうに退いた。自分の惑乱した様子を人に見られたくなかったのである。しかしいくらか心が静まってくると、また彼女を見たくなった。彼女が帰りはすまいかと気づかわれた。彼はその広間にはいっていった。そして、彼女はもう鏡の中のときと同じには見えなかったけれど、彼は群集の間からすぐに彼女を見つけ出すことができた。今や彼は、みやびな貴婦人の一団中にすわってる彼女を、横から見やった。彼女は肱掛椅子《ひじかけいす》の腕木に片肱をつき、身体を少しかがめ、手先で頭をささえて、怜悧《れいり》なしかも心を他処《よそ》にした微笑を浮かべながら、人々の話に耳を貸していた。ラファエロの討議[#「討議」に傍点]の中で、年若な聖ヨハネが、半ば眼を閉じて、自分一人の考えに微笑《ほほえ》んでいるのと、ちょうど同じような顔つきだった……。
そのとき、彼女は眼をあげ、彼の姿を見、そして驚きもしなかった。彼は彼女の微笑が自分にたいしてのものであるのを見てとった。彼は心を動かされて会釈をし、彼女に近寄っていった。
「あなたは私がおわかりになりませんの。」と彼女は言った。
その瞬間に彼は彼女がわかった。
「グラチア……。」と彼は言った。(第五巻広場の市参照)
ちょうどそのとき、通りかかった大使夫人が、長く望んでいた出会いがついになされたのを喜んでくれた。そしてクリストフを「ベレニー伯爵夫人」へ紹介した。しかしクリストフはいたく感動していて、その言葉が耳にもはいらなかった。そしてその聞き知らぬ名前に少しも気を留めなかった。彼にとってはやはり、彼女は小さなグラチアだった。
グラチアは二十二歳になっていた。一年前にオーストリア大使館付の若い男と結婚していた。この男は、オーストリア帝国の一首相の親戚《しんせき》に当たる名家の貴族であって、気取りやで、道楽者で、伊達《だて》者で、早くも憔悴《しょうすい》してしまっていた。彼女はこの男に真面目《まじめ》に恋したのであって、いろいろ批判しながらもなお愛していた。彼女の老父はもう死んでいた。夫はパリー大使館付に任命されていた。そして、ちょっとしたことにも恐れをいだく内気な小娘だった彼女は、ベレニー伯爵の知友関係や、自分自身の容色や知力などによって、パリー社交界でもっとももてはやされる若い婦人の一人となっていた。彼女はそうなるためになんらの努力もしなかったが、またそうなったのを嫌《いや》だとも思わなかった。若くてきれいで人に喜ばれまた人が喜んでるのを知ってることは、一つの大なる力である。自分の希望と運命との和《なご》やかな調和のうちに幸福を見出すような、きわめて健全できわめて晴朗な落ち着いた心をもってるこども、また同じく大なる力である。生命の美しい花が開いたのだった。しかし彼女は、イタリーの土地の強い光と平和とに養われた、ラテン魂の静穏な音楽を、少しも失いはしなかった。当然のことだが、彼女はパリー社交界にある勢力を得ていた。そしてそれを少しもみずから驚きはしなかったし、自分の力を借りにくる芸術的なあるいは慈善的な事業のために、その勢力を利用することを知っていた。ただそれらの事業の表立った世話は、みな他人に任せておいた。というのは、彼女は自分の地位相当の振る舞いをする術《すべ》を心得てはいたけれど、野中の寂しい別荘で暮らした多少粗野な幼年時代から、あるひそかな独立的気質を受け継いでいたのである。その気質は、社交界にたいして面白がりながらも疲れを覚えたが、しかし愛想のよい親切な心から出るやさしい微笑の下に、倦怠《けんたい》の情を隠すことができるのだった。
彼女は大きな友だちクリストフのことを忘れはしなかった。がもちろん彼女はもう、無言のうちに潔白な愛情を燃やしている少女ではなかった。現在のグラチアは、きわめて思慮深い女で少しも空想的ではなかった。自分の幼い愛情のいろんな誇張にたいしては、穏やかな皮肉の念をいだいていた。とは言え、それらの追憶によって心を動かされずにはいられなかった。クリストフの思い出は彼女の生活のもっとも純潔なころと結びついていた。彼の名前を聞くとうれしかった。そして彼の成功を一々、あたかも自分がそれに関係してるかのように楽しんでいた。なぜなら彼女は彼の成功を予感したのだったから。彼女はパリーへ来るとすぐに、彼に再会しようとした。少女時代の昔の名まで書き添えて、彼へ招待状を出した。クリストフはそれに注意も払わないで、招待状を屑籠《くずかご》に投げ込んだまま、返事さえ出さなかった。彼女は別に気を悪くしなかった。彼に知らせないようにして、彼の仕事やまた多少生活までも探っていた。新聞紙が彼にたいしてなした最近の戦いにおいて、親切な救いの手を彼へ差し出したのは、彼女だったのである。清麗なグラチアは、新聞社会とはほとんど関係をもたなかった。しかし友へ尽くす場合になると、狡猾《こうかつ》な策略を用いて、もっとも嫌《きら》いな人々をさえ取り込むことができた。吠《ほ》えたてる犬どもの群れを率いてる新聞社長を、彼女は招待した。そしてたやすく気を乱さしてしまった。彼の自尊心を喜ばすことができた。彼を瞞《だま》しこみながらうまく誘って、クリストフに向けられる攻撃に関し軽蔑《けいべつ》的な驚きの言葉をそれとなくちょっと発しただけで、戦いをぴたりとやめさしたのである。社長は翌日現われるはずだった侮辱的な記事を差し止めた。筆者が記事差し止めの理由を尋ねると、社長はきびしくしかりつけた。そしてなおそれ以上のことをした。頤使《いし》のままになる部下の一人に命じて、半月ばかりたつうちに、クリストフにたいする賛嘆の記事をこしらえさした。でき上がったその記事は、思いどおりの感激的な大袈裟《おおげさ》なものだった。また、大使館でクリストフの作品を聴《き》かせようと思い立ったのも、グラチアだったし、クリストフがセシルを贔屓《ひいき》にしてることを知って、その若い歌手を世に知らせようと尽力したのも、グラチアだった。それからまた、彼女はドイツの外交社会との関係によって、穏やかな巧妙さで、ドイツから放逐されてるクリストフに対する政府筋の同情を、ごく徐々に喚起させ始めた。そしてしだいに世論の趨勢《すうせい》を一定さして、故国の名誉たる大芸術家に故国の門を開いてやるべき勅令を、皇帝から得させようとつとめた。その特赦状を期待するのは目下のところまだ尚早《しょうそう》に失するとしても、少なくとも彼女は、彼が故郷の町へ数日の旅をすることについて、当局に眼をつぶってもらうことができたのだった。
そしてクリストフは、眼に見えない友の存在を自分の上に感じながら、それがだれであるかを見出し得なかったけれど、鏡の中で微笑《ほほえ》みかけた若い聖ヨハネの面影のうちに、今やその本体を見てとった。
二人は過去のことを話した。話してる事柄がどんなことであるか、クリストフはほとんど自分でもわからなかった。人は愛する女をよく見ないと同じく、その言葉をもよく聞きはしない。そして深く愛するときには、愛してるということさえも考えない。クリストフは何にも気づかなかった。彼女がそこにいる、それだけでもう十分だった。他のことはもう何も存在しなかった……。
グラチアは話しやめた。ごく背の高い、かなり美男子の、身装《みなり》を凝らし、髯《ひげ》を剃り、頭は半ば禿《は》げ、退屈げな軽蔑《けいべつ》的な様子をしてる、一人の若い男が、片眼鏡越しにクリストフをじろじろ見ていたが、早くも尊大な丁寧《ていねい》さで辞儀をしていた。
「夫ですよ。」と彼女は言った。
広間の騒々しさがまた感ぜられてきた。内心の光は消えた。クリストフはぞっとして口をつぐみ、男の挨拶《あいさつ》に答礼しながら、すぐに引きさがってしまった。
芸術家の魂の要求こそ、また、芸術家の熱烈な生活を支配する子供らしい法則の要求こそ、実に滑稽《こっけい》なしかも痛烈なものである! 彼はその女の友を、昔向こうから愛せられてたときには気にも止めず、もう数年来思い浮かべたこともなかったが、今ふたたびめぐり会うや否や、彼女は自分のものであり、自分の所有であって、だれかが彼女を取ってる場合には、それは自分の手から盗んだのである、というように思えた。彼女自身にも他人へ身を与える権利はない、というように思えた。クリストフは自分のうちに何が起こってるかをみずから知らなかった。しかし彼の創造の悪魔は彼の代わりにそれをよく知っていて、そのころ切ない恋のもっとも美しい歌を幾つかこしらえ出した。
その後かなり長く彼は彼女に会わなかった。オリヴィエの悲しみと衰弱とが彼の心につきまとっていた。がついにある日、彼女からもらった住所書きを見出して、彼は思い切って訪問した。
階段を上ってゆくとき、職人らが金槌《かなづち》で釘《くぎ》を打ってる音が聞こえた。控え室は荷箱やかばんでいっぱいになって取り散らされていた。伯爵夫人はお目にかかれないと給仕が答えた。クリストフは落胆して、名刺を渡して帰りかけた。ところが給仕が追っかけてきて、詫《わ》びを言いながら彼を室に通した。敷物がすっかりめくられ巻き収められている小さな客間に、クリストフは案内された。グラチアは晴れやかな笑顔をし喜びに駆られて手を差し出しながら、彼を迎えに出て来た。つまらない恨みはみな消えてしまった。彼も同じく喜び勇んでその手を握りしめ、それに唇《くち》づけをした。
「ほんとに、」と彼女は言った、「おいでくだすってうれしゅうございます。あれきりお目にかからないで出発してしまうのかと、心配しておりました。」
「出発……出発なさるんですか。」
ふたたび暗い影が彼に落ちかかってきた。
「御覧のとおりですよ。」と彼女は室の中の乱雑さをさし示しながら言った。「今週の終わりには、私どもはパリーを立ち去ります。」
「長くですか。」
彼女は身振りをしながら言った。
「わかりませんわ。」
彼は口をきくのが苦しかった。喉《のど》がしめつけられていた。
「どこへいらっしやるのですか。」
「アメリカへまいりますの。夫がそこの大使館の一等書記官に任命されましたので。」
「そしてこれで、これで……」と彼は言
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