った(唇《くちびる》が震えていた)、「……お別れですか。」
「あなた、」と彼女は彼の調子に心動かされて言った、「いいえ、お別れではありませんわ。」
「お別れするためにあなたにめぐり会ったようなものです。」
 彼は眼に涙を浮かべていた。
「あなた!」と彼女はくり返した。
 彼は眼に手を当てて、自分の感情を見せないように顔をそむけた。
「悲しがってはいけません。」と彼女は彼の手の上に自分の手をのせながら言った。
 そのおりにまた彼は、ドイツの少女のことを頭に浮かべた。彼は口をつぐんだ。
「なぜこんなにいつまでも来てくださいませんでしたの?」と彼女はついに尋ねた。「私はあなたにお目にかかりたがっていました。けれどあなたは返事もくださらなかったでしょう。」
「私は少しも知らなかったんです、少しも知らなかったんです……。」と彼は言った。「ねえ、私に知らせないようにして、私を何度も助けてくだすったのは、あなただったでしょう……私がドイツへ帰ることができたのも、あなたのおかげだったんですね。私を見守っていてくれた親切な天使は、あなただったんですね。」
 彼女は言った。
「私はいくらかでもあなたのためになるのがうれしゅうございました。たいへん御恩になっていますから。」
「なんでです?」と彼は尋ねた。「私は何にもあなたのためになることをしたことはありません。」
「どんなに私のためになってくだすったかは、あなた自身で御存じないのですわ。」と彼女は言った。
 彼女は、自分が娘時代に、叔父《おじ》のストゥヴァン家で彼に出会って、彼によって、彼の音楽によって、世の中にある美しいものを啓示されたころのことを、話し出した。そしてしだいに、やさしい興奮を見せながら、明らかなしかし控え目な短い暗示的な言葉で語った、幼いころの感動のことや、クリストフの悲しみを分かち荷《にな》ったことや、彼が皆に口笛を吹かれてそのために自分が涙を流したあの音楽会のことや、彼にあてて書いた手紙のことなどを。彼はその手紙に返事も出さなかった。それを受け取りはしなかったから。そしてクリストフは彼女の話に耳を傾けながら、今自分が覚えてる感動や、自分のほうへかがみ込んでるそのやさしい顔にたいして、心の底から起こってくる情愛などを、しみじみと過去のうちに投影さしていた。
 二人はやさしい喜びの念で無邪気に話し合った。クリストフは話しながらグラチアの手をとった。そして突然二人とも話をやめた。グラチアはクリストフが自分を愛してることに気づいたし、クリストフもまたそれに気づいた……。
 クリストフは気にもつかなかったが、グラチアは一時クリストフを愛したことがあった。そして今では、クリストフはグラチアを愛していた。グラチアはもう穏やかな友情しかいだいていなかった。彼女は他の男を愛していた。世間にしばしば起こるように、彼らの生活の二つの時計の一方が他方より進んでいるというだけで、彼らの生活は両方とも一変されてしまったのである……。
 グラチアは手を引っ込めた。クリストフはそれを引き止めなかった。そして二人はそのまま、しばらくは言葉もなく当惑していた。
 そしてグラチアは言った。
「ではこれで……。」
 クリストフはくり返し訴えた。
「これでお別れですか。」
「このままのほうがよろしいと思いますわ。」
「お発《た》ちになる前にもうお目にかかれないでしょうか。」
「ええ。」と彼女は言った。
「いつまたお目にかかれるでしょう?」
 彼女は悲しげに疑いの身振りをした。
「それでは何になるでしょう、」とクリストフは言った、「ふたたびお会いしたのも何になるでしょう?」
 しかし彼女のとがめる眼つきを見て、彼はすぐに言った。
「いえ、ごめんください。私がいけないんです。」
「私はこれからも始終あなたのことを考えておりますわ。」と彼女は言った。
「ああ私は、」と彼は言った、「あなたのことを考えることさえできません。私はあなたの生活を少しも知らないんです。」
 平然と彼女は、自分の日常生活を、どんなふうに日々を暮らしてるかを、手短かに話してきかした。自分と夫とのことを、やさしい美しい笑顔で話してきかした。
「あああなたは、」と彼は妬《ねた》ましげに言った、「御主人を愛していられますね。」
「ええ。」と彼女は言った。
 彼は立ち上がった。
「さようなら。」
 彼女も立ち上がった。そのとき初めて彼は、彼女が妊娠してることを認めた。そのために、嫌悪《けんお》と愛情と嫉妬《しっと》と熱い憐憫《れんびん》との名状しがたい印象を心に受けた。彼女はその小さな客間の扉口《とぐち》まで送ってきた。彼は扉口で向き遜り、彼女の手のほうへ身をかがめ、それに長く唇《くちびる》をあてた。彼女は眼を半ばつぶって動かなかった。ついに彼は身を起こした。そして彼女の顔を見ないで、急いで出て行った。

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……その時、いかなるものなるやと尋ぬる者
ありしならば、予はみずから卑下《ひげ》の色を面《おもて》に
浮かべつつ、ただ愛[#「愛」に傍点]とのみ答えしならん……
[#ここで字下げ終わり]

 諸聖人祭の日。戸外には、灰色の光と寒い風。クリストフはセシルの家にいた。セシルは子供の揺籠《ゆりかご》のそばにすわっていた。通りがかりに立ち寄ったアルノー夫人が、子供の上に身をかがめてのぞき込んでいた。クリストフは夢想にふけっていた。彼は幸福を取り逃がしたような気がしていた。しかし愚痴をこぼそうとは思わなかった。幸福が存在してることを知っていた。……太陽よ、御身を愛するためには御身を見るの必要はない! 私が影の中で打ち震えてるこの冬の長い日々の間、私の心は御身でいっぱいになっている。私の愛は私を暖かくしてくれる。私は御身がそこにいることを知っている……。
 セシルも夢想にふけっていた。彼女はつくづくと子供を見守って、ついにその子供を自分の子だと思うようになっていた。ああ、生活の創造的な想像たる夢想の祝福されたる力よ! 生活……生活とはなんであるか? それは冷たい理性やわれわれの眼が見るところのものではない。生活とはわれわれが夢想するところのものである。生活の基準は愛である。
 クリストフはセシルをながめた。眼の大きな田舎《いなか》めいたその顔は、母性的な――真の母親よりもいっそう母親めいた――本能の光に輝いていた。またクリストフは、アルノー夫人の疲れたやさしい顔をながめた。そしてそこに、興深い書物の中で見るように、人妻生活の隠れたる楽しみや苦しみを読み取った。人妻の生活は往々にして、人には気づかれないが、悲しみや喜びにおいては、ジュリエットやイゾルデの恋と同じほど豊富なものである。しかも宗教的な偉大さをより多くそなえている……。

[#ここから3字下げ]
人間的にして神的なるものの伴侶《はんりょ》……
[#ここで字下げ終わり]

 そして、既婚および未婚の女の幸福もしくは不幸をなすものは、信仰の有無ではないと同様に、子供の有無でもないと、クリストフは考えた。幸福というものは、魂の香《かお》りであり、歌う心の諧調《かいちょう》である。そして魂の音楽のうちのもっとも美しいものは、温情にほかならない。
 オリヴィエがはいって来た。彼の挙動は落ち着いていた。新たな晴朗さが彼の青い眼に輝いていた。彼は子供に微笑《ほほえ》みかけ、セシルやアルノー夫人と握手をし、そして静かに話し始めた。人々はやさしい驚きの念で彼を見守った。彼はもはや以前と同じではなかった。あたかも毛虫がみずから紡いだ巣の中にこもるように、苦悩といっしょに孤独の中に閉じこもっていて、辛《つら》い努力のあとに、自分の心痛を脱穀《ぬけがら》のように振るい落とすことができたのだった。もう嫌《いや》になって犠牲にするしかないと思っていた自分の生活をすっかりささげつくすべき、りっぱな主旨をどうして彼が見出すようになったかは、後に物語ることとしよう。そして、自分の生活をそのために投げ出そうと心の中で誓ってからは、普通の例にもれず、彼の生活はふたたび輝いてきたのだった。親しい彼らは彼をうちながめた。彼らはどういうことが起こったかを少しも知らなかった。それを彼に尋ねかねた。けれども、彼がすでに解放されて、何事についても、まただれにたいしても、愛惜や怨恨《えんこん》をもはやいだいていないということを、彼らは感じたのだった。
 クリストフは立ち上がって、ピアノのところへ行き、オリヴィエに言った。
「ブラームスの旋律《メロディー》を一つ歌ってきかせようか。」
「ブラームスの?」とオリヴィエは言った。「君は今では旧敵の作をもひくのか。」
「今日は諸聖人祭だ。」とクリストフは言った。「万人にたいする赦免の日だ。」
 彼は子供の眼を覚《さ》まさないように小声で、シュワーベンの古い民謡を数句歌った。

[#ここから3字下げ]
お前が愛してくれた時のこと
わたしは有難《ありがた》がってるよ、
他処《よそ》ではもっとお前に幸《さち》あれと
わたしは祈っておりますよ……
[#ここで字下げ終わり]

「クリストフ!」とオリヴィエは言った。
 クリストフは彼を胸に抱きしめた。
「さあ君、」と彼は言った、「僕たちは運がいいんだ。」

 彼らは四人で、眠ってる子供のそばにすわっていた。少しも口をきかなかった。そしてどういうことを考えてるかと尋ねる人があったならば――彼らはみずから卑下の色を顔に浮かべてただこう答えたであろう[#「彼らはみずから卑下の色を顔に浮かべてただこう答えたであろう」に傍点]。
「愛[#「愛」に傍点]。」



底本:「ジャン・クリストフ(三)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年8月18日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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