利用して、そこへ勉強に行った。でリュシル・アルノーは、がらんとした部屋《へや》の中に一人でいた。八時から十時まで手荒い仕事をやりに来る家事女と、毎朝注文を聞いて品物をもって来る商人とを除いては、だれも訪れてくる者がなかった。その建物の中には、もうだれも知人がなかった。クリストフは移転していた。リラの植わってる庭には新しく来た人たちが住んでいた。セリーヌ・シャブランはオーギュスタン・エルスベルゼと結婚していた。ユリー・エルスベルゼは鉱山採掘の任を帯びて、家族を連れてスペインへ行っていた。老ヴェールは妻を失って、パリーの住居にはほとんど来ることがなかった。ただクリストフとその友のセシルとだけが、リュシル・アルノーとまだ交際をつづけていた。しかしその二人は遠くに住んでいて、毎日苦しい仕事に追われていたので、幾週間も彼女を訪《たず》ねて来ないことがあった。彼女は自分だけを頼りにするのほかはなかった。
 彼女は少しも退屈してはいなかった。自分の興味をそそるにはわずかなもので足りた。日々のちょっとした仕事。毎朝母親めいた入念さでか細い葉を洗ってやる小さな植木。灰色のおとなしい飼い猫《ねこ》。その猫は、かわいがられてる家畜の例にもれず、ついには彼女の様子に多少感染してきて、彼女のように一日じゅう、暖炉の隅《すみ》やテーブルの上のランプのそばなどにうずくまって、仕事をしてる彼女の指先を見守り、ときどき彼女のほうへ妙な瞳《ひとみ》をあげてながめ、それからまた無関心な眼つきになるのだった。種々の家具もまた彼女の友となった。どれも皆親しい顔つきをしていた。それをよくみがきたてたり、横のほうについてる埃《ほこり》をそっと拭《ふ》いたり、きまってる場所に注意深くすえ直したりするのが、彼女には子供らしい楽しみだった。彼女はそれらの物と無音の話を交えた。ことに自分のもってる唯一のりっぱな古い家具、ルイ十六世式の精巧な円筒卓に向かって、彼女はいつも微笑《ほほえ》みかけた。それを見ると、毎日同じような喜びを覚えた。また彼女はしきりに衣装を調べた。幾時間も椅子《いす》の上に立って、顔と両腕とを大きな田舎箪笥《いなかだんす》の中につっ込んで、ながめたり片付けたりした。すると猫は訝《いぶか》しそうに、幾時間も彼女の様子をながめていた。
 けれども、すべての仕事を終え、一人で昼食をともかくも済まし――(彼女はいつもあまり食欲がなかった)――必要な用達《ようたし》に外へ出かけ、一日の用が済んで、四時ごろ居間に引っ込み、編み物と小猫《こねこ》とをかかえて、窓ぎわや暖炉のそばに落ち着くとき、彼女は非常にうれしかった。時とすると何かの口実を設けて、まったく外出しないこともあった。家に引きこもっているのが、ことに冬で雪の降ってるときには、うれしかった。彼女自身もごくきれいな繊細な弱々しい小猫にすぎなくて、寒気や風や泥や雨などが嫌《きら》いだった。商人が御用聞きに来るのをうっかり忘れるようなときには、昼食を求めに外出するよりも、食べないで家にいるほうが好ましかった。そういう場合には、一片のチョコレートや戸棚《とだな》の中の果物《くだもの》などをかじった。彼女はそれをアルノーへ言うのを差し控えていた。そういうことが彼女の怠惰だった。そして、日影の薄いその日々、また時とすると日の照り渡った麗わしい日々――(ひっそりとした薄暗い部屋のまわりには、戸外には、青空が輝いており、街路の物音が響いていた。それはちょうど、彼女の魂を取り巻いてる蜃気楼《しんきろう》のようだった。)――彼女は好きな片隅《かたすみ》に座を占め、脚台に両足をのせ、編み物を手にして、指先を動かしながらも、じっと思いにふけった。そばには愛読書を一冊置いていた。たいていそれは、イギリスの小説の翻訳である赤表紙の粗末な書物だった。彼女はほんの少ししか読まなくて、日に一章がせいぜいだった。それで膝《ひざ》の上の書物は、長い間同じページが開かれてるままだったし、てんで開かれていないことさえあった。彼女は読まない先からそれを知っていた、それをぼんやり想像していた。それでディケンズやサッカレーの長い小説は、読むに数週間かかったが、彼女はそれを数年間夢想してるのだった。それらの小説はしみじみとした情愛で彼女を包み込んでいた。早急に濫読する現今の人々は、いい書物をゆっくり味わうときにそれから輝き出す霊妙な力を、もはや知り得ないのである。アルノー夫人は、それら小説中の人物の生活が自分の生活と同じく現実であることを、少しも疑わなかった。彼女が自分の一身をささげたく思うような人物もあった。母親と乙女《おとめ》との心をそなえてひそかに恋に燃えている、嫉《ねた》み深いまたやさしいキャスルウッド夫人は、彼女にとっては姉妹のように思われた。小さなドンビーは、自分のかわいい息子《むすこ》のように思われた。死にかかってる世間知らずの細君ドラーは、自分自身のように思われた。善良な純潔な眼で世をながめてゆくそれら童心の魂たちのほうへ、彼女は両手を差し出した。そして彼女の周囲には、おかしなまたいじらしい空想を追っかけてる、愛すべき貧民やおとなしい恋人の行列が、通りすぎていった――そして、自分の夢を笑いまた泣いてる善良なディケンズのやさしい天才が、その先頭に立っていた。ちょうどそういうとき、彼女が窓から外をながめると、この空想世界の親愛な人物や獰猛《どうもう》な人物が、通行人のうちに見てとられた。人家の壁の向こうに、同じような生活があるのが推察された。彼女が外出を好まないというのも、神秘に満ちてるその世界を恐れてるからだった。彼女は自分のまわりに、悲劇が隠れていたり喜劇が演ぜられていたりするのを気づいていた。そしてそれはいつも幻影ばかりではなかった。彼女は孤独な生活をしてるうちに、ある神秘な直覚の才能を得ていたので、通りすがりの人々の眼つきを見ても、その中に、往々彼ら自身も気づかないでいる過去や未来の彼らの生活の秘密を、読みとることができた。そしてそれらの真実な幻像は、彼女にあっては、架空的な追憶が加わるために変形されてしまった。彼女はそういう広漠《こうばく》たる世界のうちにおぼれる気がした。しっかりした足がかりを得るために家へもどらなければならなかった。
 けれども、他人を見たりその心中を読みとったりする必要が、なんで彼女にあったろう? 彼女はただ自分自身の内部をながめるだけで十分だった。外部から見たところでは光のない蒼白《あおじろ》い彼女の存在も、内部においてはいかに光り輝いてたことだろう! なんという充実した生活だったろう! 人が夢にも知らないほどの、なんというたくさんの追憶が、宝が、あったことだろう!……そしてそれらのものは、かつて多少の現実性を有したことがあるか――もちろんある。それらは現実だったのだ。なぜなら彼女にとって現実だったから……。おう、夢想の魔法|杖《づえ》に変容させられる憐《あわ》れな生活よ!
 アルノー夫人は長い歳月をさかのぼって、幼年時代までも思い起こしていた。消え失《う》せた希望のかよわい小さな花までが、一つ一つひそかに咲き返った……。ある少女にたいする幼い初恋。彼女はその娘を一目見たときからもう魅惑されたのだった。この上もなく純潔なおりの恋愛とも言えるもので、彼女はその娘を愛した。その娘から触《さわ》られるのを感ずると、息がつまるほど感動した。その娘の足に接吻《せっぷん》し、その娘の愛子となり、またその娘と結婚したかった。がその偶像は、やがて結婚し、幸福な目にも会わず、子供を一人もち、その子供も死に、自分も死んでしまった……。また十二歳のころ、同年配の他の娘にたいする恋。その娘はいつも彼女をいじめてばかりいた。悪戯《いたずら》な快活な金髪の娘で、彼女を泣かすのを面白がり、泣かしたあとではやたらに接吻してくれた。二人はいっしょに、架空的な未来の計画をいろいろたてていた。がその友は、なぜか突然に、カルメル会の尼となってしまった。幸福に暮らしているそうだった……。つぎには、ずっと年上のある男にたいする深い情熱。この情熱についてはだれも知らなかったし、当の男でさえもそれを知らなかった。しかし彼女はそこで、献身の熱誠を、情愛のいろんな宝を、費やしたのだった……。それから、なおも一つの情熱、こんどは向こうから彼女を愛していた。しかし彼女は、妙な臆病《おくびょう》さのために、自信の念の乏しさのために、愛せられてるのを信ずることもできなかったし、愛してる様子を示すこともできなかった。そして幸福は、つかまれずに過ぎ去ってしまった……。つぎには……しかし、自分だけにしか意味のない事柄を他人に語ったとてなんの役にたとう? 彼女には深い意味をもたらしたものも、実際はいろんなつまらない事柄ばかりだった。友が払ってくれた注意、オリヴィエがなんの気もなく言ったやさしい一言、クリストフの親切な訪問、彼の音楽が喚《よ》び起こしてくれた楽しい世界、見知らぬ人の一|瞥《べつ》など。この正直な純潔なりっぱな女である彼女のうちにも、ある知らず知らずの不実な考えがあるのだった。彼女はそれに心乱され、それを恥ずかしく思い、わずかに避けていたが、それでもやはり――罪のないことなので――そのために多少心を輝かされた……。彼女は夫を深く愛していた。夫は彼女の夢想どおりの人ではなかったけれども、至って善良だった。ある日彼は彼女に言った。
「ねえお前、お前が私にとってどんなものであるかは、お前にはわかるまい。お前は私の生活のすべてなのだ……。」
 彼女の心はすっかり解けたのだった。その日彼女は、永久にすっかり彼と結合した心地がした。そして二人は年ごとにますます密接に結びついた。いっしょに美《うる》わしい夢想を描いた。仕事や旅行や子供の夢想だった。そしてそれはどうなったか?……悲しいかな!……でもアルノー夫人はやはり夢想をつづけていた。夢想の中に一人の子供がいた。彼女はその子供のことを、あまりにしばしばあまりに深く考えたので、実際そこにいるかのようによく知っていた。幾年となくそのほうへ考えを向けて、自分の見たもっとも美しいものや自分の愛したもっともかわいいもので、たえずそれを飾りたてていた……。そして、沈黙!……
 それがすべてだった。それが彼女の世界だった。ああいかに多くの人知れぬ悲劇が、もっとも深い悲劇さえもが、外観は至って静穏平凡な生活の奥に、隠れていることであろう! そしておそらくもっとも悲壮なのは、それら希望の生活のうちに、何事も起こらない[#「何事も起こらない」に傍点]ということである――自分の権利であるところのものに向かって、自然から約束されそして拒まれた自分の所有物であるところのものに向かって、絶望的な叫びをあげ――熱烈な苦悩のうちに身をさいなみ――しかも外部にその様子を少しも示さない――それら希望の生活のうちに、何事も起こらない[#「何事も起こらない」に傍点]ということである。
 アルノー夫人は自分の幸福のために、自分のことばかりに没頭しているのではなかった。彼女の生活は、彼女の夢想の一部をしか満たしていなかった。彼女はなお、今知ってる人々や昔知った人々の生活をも、みずから生活していた。それらの人々の地位に身を置いていた。クリストフのことを考え、友のセシルのことを考えていた。今日も彼女はセシルのことを考えていた。二人はたがいに愛情をいだいていた。不思議なことには、二人のうちの強健なセシルのほうがいっそう、かよわいアルノー夫人によりかかりたがっていた。この快活な丈夫な大きな娘は、実は、見かけほど強くはなかった。彼女はちょうど危機を通っていた。もっとも沈着な心の人でさえ、意外な羽目に陥ることがある。彼女のうちにはごくやさしい一つの感情がはいり込んでいた。彼女は初めそれを認めたくなかった。しかしそれはしだいに大きくなってきて、眼に留めないわけにゆかなくなった――彼女はオリヴィエを愛してるのだった。その若者の静かなやさしい振る舞い、その身体つきのやや女性的な美《
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