うる》わしさ、その弱々しい信頼的な性質、などはすぐに彼女をひきつけたのだった。――(母性的な性格は自分を頼りにする者からひきつけられる。)――その後彼女は、オリヴィエの夫婦生活の苦しみを知ったために、危険な憐《あわ》れみの念を彼にたいして起こした。もちろんそういう理由ばかりではなかった。一人の者が他の者に熱中する理由を、だれがすっかり言い得よう? どちらもなんでもないことがしばしばである。そのときの場合によるのであって、用心していない人の心は、途上に横たわってる最初の愛情に、ふいに引き渡されてしまうことがある。――セシルは、もはや自分の愛に疑いの余地がなくなると、その愛を罪深い不条理なものだと考えて、それを抜き去ろうと勇ましく努力した。彼女は長くみずから自分を苦しめた。心の傷を癒《いや》すことができなかった。だれも彼女の心中に起こってる事柄を気づかなかった。彼女は幸福な様子を雄々しくも装っていた。ただアルノー夫人だけがその苦しみを察していた。セシルはやって来ては、彼女の花車《きゃしゃ》な胸に、首筋の頑丈《がんじょう》なその頭をもたせかけた。そして黙って涙を流し、彼女を抱擁し、それから笑いながら帰っていった。そのかよわい友にたいして、セシルは深い尊敬をいだいていた。この友のうちに彼女は、ある精神的な力と自分の信念よりもすぐれた信念とを、見出していた。彼女は心中を打ち明けはしなかった。しかしアルノー夫人は、片言隻語で察知することができた。ただ彼女にとっては、世の中は悲しい誤解ばかりのように思われた。そしてその誤解をとくことは不可能であった。人はただ愛し憐れみ夢想することができるばかりである。
そして、夢想の群れが心の中であまりに騒々しく飛び回るとき、頭がふらふらするとき、彼女はピアノについて、低音の鍵《キー》にとりとめもなく指を触れながら、音響の和《なご》やかな光明で、生活の迷夢を包み込むのであった……。
しかしこの善良な可憐な女は、日々の務めの時間を忘れはしなかった。アルノーが家にもどってくると、燈火はともされ、食事の支度はできていて、妻の蒼白《あおじろ》いにこやかな顔が待っていた。そして自分の不在中、彼女がどういう世界に生きてたかを、彼は少しも気づかなかった。
困難なのは、二つの生活を衝突させずにいっしょに維持してゆくことだった。日常生活と、遠い地平線をもってる大なる精神生活。その二つを維持するのはいつも容易なことではなかった。幸いなことにアルノーもまた、書物のうちに、芸術作品のうちに、半ば空想的な生活をしていた。その永遠の火によって、揺らめいてる魂の炎が支持されていた。しかしこの数年間彼は、職務上のいろんな煩わしい些事《さじ》や、同僚または生徒との間の不正や不公平や不愉快などから、しだいに多く心を奪われていった。彼は気むずかしくなった。政治を談じ始め、政府やユダヤ人をののしり始めた。自分が大学教授の地位を得られなくなったのは、ドレフュースのせいだとした。彼のそういう苦々《にがにが》しい気分は、アルノー夫人へも多少伝わった。彼女は四十歳近くなっていた。生活力が乱されて平衡を求める年齢だった。彼女の思想のうちには大なる亀裂《きれつ》が生じた。しばらくの間、彼らは二人とも生存の理由をすべて失った。なぜなら彼らは、その蜘蛛《くも》の巣を張るべき場所をもはやもたなかったのだから。いかに弱い現実の支持であろうとも、その一つが夢想には必要である。ところが彼らにはなんらの支持もなかった。彼らはもうたがいにささえ合うことができなかった。彼は彼女を助けないで、彼女にすがりついてきた。そして彼女のほうでは、彼をささえるだけの力が自分にないことを知った。するともう彼女は自分を支持することもできなかった、ただ奇跡によってなら救われるかもしれなかった。彼女は奇跡を呼び求めていた……。
奇跡は魂の深みからやって来た。否応なしに創造したいという崇高な無法な欲求、否応なしに自分の蜘蛛《くも》の巣を空間に織り出したいという欲求が、孤独な心から湧《わ》き出てくるのを彼女は感じた。それはただ織り出す喜びのためにばかりであって、自分がどこに運ばれてゆくかは、風のままに、神の息吹《いぶ》きのままに、うち任せたのだった。そして神の息吹きは、彼女をふたたび生活に結びつけ、眼に見えない支持を彼女に見出さしてやった。そこで夫妻は二人とも、空想のりっぱな無益な蜘蛛の巣を、ふたたび気長に織り出し始めた。それは彼らの血液のもっとも純潔なもので作られたのだった。
アルノー夫人は一人で家にいた……日は暮れかかっていた。
訪問の鈴《りん》が鳴った。アルノー夫人はいつもより早く夢想から呼び覚《さ》まされて、ぞっと身震いをした。丁寧《ていねい》に編み物を片付けて、立って行って扉《とびら》を開いた。クリストフがはいって来た。彼はひどく感動していた。彼女はやさしく彼の手をとった。
「どうなすったの?」と彼女は尋ねた。
「あの、オリヴィエがもどって来たんです。」と彼は言った。
「もどっていらして?」
「今朝やって来ました。『クリストフ、助けてくれ!』と言うんです。僕は抱擁してやりました。泣いていました。『僕にはもう君だけだ、彼女は行ってしまった、』と彼は言いました。」
アルノー夫人はびっくりして、両手を握り合わして言った。
「まあ不仕合わせなお二人ですこと!」
「彼女は行ってしまったんです、」とクリストフはくり返した、「情夫といっしょに。」
「そしてお子さんは?」とアルノー夫人は尋ねた。
「夫も子供も置きざりです。」
「まあ不仕合わせな女《ひと》ですこと!」とアルノー夫人はまた言った。
「オリヴィエは彼女を愛していました、」とクリストフは言った、「彼女だけを愛していたんです。もうその打撃からふたたび起《た》ち上がることはできますまい。『クリストフ、僕は彼女から裏切られた……僕のいちばんよい友から裏切られた、』とくり返し言うんです。僕は言ってやりました。『君を裏切った以上は、彼女はもう君の友ではないのだ。君の敵なのだ。忘れてしまえよ、そうでなけりゃ殺してしまえよ。』とそう言っても、甲斐《かい》がないんです。」
「ああ、クリストフさん、何をおっしゃるんです! あまりひどいことじゃありませんか。」
「ええ、それは僕にもわかっています、あなたがたには殺すということが、歴史以前の野蛮行為のように思われるでしょう。このパリーのきれいな人たちは、牡《おす》が自分を裏切った牝《めす》を殺そうとする畜生的な本能にたいして、いろいろ抗弁して、寛大な理性を説くんですね。なるほどりっぱな使徒です! この雑種の犬どもの群れが、動物性への逆転を憤るのは、実にりっぱな見物ですよ。彼らは生活を侮ったあとに、生活からその価値をすべて奪い去ったあとに、宗教的な崇拝で生活を包むのです……。心情も名誉もない生活、単なる物質、一片の肉体の中の血液の鼓動、そんなものが彼らには尊敬に催するのだと思えるのでしょう。すると彼らはあの肉屋の肉にたいして、十分敬意を払っていませんね。それに手を触るるのは一つの悪罪でしょう。魂を殺すなら殺すがいい、しかし身体は神聖なものだとでも……。」
「魂を殺すのはもっとも悪い殺害です。けれども、罪は罪を許しません。あなたもそのことはよく御存じでしょう。」
「知っています。あなたの言われることは道理です。僕はよく考えもせずに言ってるのです……。けれど、おそらく僕はそのとおりのことをやりかねないんです。」
「いいえ、あなたは自分で自分をけなしていらっしゃるのですよ。あなたはいい人ですもの。」
「僕は熱情に駆られると、やはり他人に劣らず残酷になります。ねえ、僕は先刻《さっき》どんなにか怒《おこ》ってたでしょう!……自分の愛する友人が泣くのを見ては、彼を泣かしてる者をどうして憎まずにいられましょう? 子供をも見捨てて情夫のあとを追っかけていった浅ましい女にたいしては、いくら苛酷《かこく》にしてやってもまだ足りないではないでしょうか。」
「そんなふうにおっしゃるものではありません、クリストフさん。あなたにはよくわからないのです。」
「えッ! あなたはあの女の肩をもたれるのですか。」
「私はあの女《ひと》をお気の毒に思います。」
「僕は苦しんでる人たちをこそ気の毒だと思うんです。人を苦しめる奴《やつ》らを気の毒だとは思いません。」
「じゃああなたは、あの女《ひと》もやはり苦しんだとはお考えになりませんか。単に浮気のせいで、子供を捨てたり生活を破壊したりされたのだと、お思いになりますの。あの女《ひと》自身の生活も破壊されたのではありませんか。私はあの女《ひと》をあまりよくは知りません。お目にかかったのも二度きりで、それもほんのついでにだったんです。私に親しい言葉もおかけになりませんでしたし、同情ももっていられませんでした。それでも私は、あなたよりもよくあの女《ひと》の心を知っています。悪い方《かた》でないことを確かに知っています。かわいそうな方ですわ。あの女《ひと》の心中にどういうことが起こったか、私には察しられます……。」
「りっぱな正しい生活をしていられるあなたに!……」
「ええ私に。あなたにはわからないのです。あなたはいい方だけれど、男ですもの。やさしくはあっても、みんな男の人と同じように、やはり頑固《がんこ》なのです――自分以外のものには少しも察しがないのです。あなたがた男の人は、自分のそばにいる女の心を、夢にも御存じありません。自己流に女を愛してはいらっしても、少しも女を理解しようとはされません。たやすく自分だけに満足していられるのです。あなたがたは私たち女のことを知ってると思い込んでいられますけれど……ああ、私たちにとっては、あなたがたから少しも愛せられていないということではなく、どんなふうに愛せられてるかということ、私たちをもっともよく愛してる人たちにとって私たちがなんであるかということ、それを見るのが時としてはどんなに苦しいか、あなたがたに知っていただけさえしましたら! クリストフさん、時によりますと、『愛してくださいますな、愛してくださいますな、こんなふうに愛してくださるよりも、他のことのほうがどんなことでもまだよろしいのです、』という叫び声を押えるためには、爪《つめ》が手のひらにくい入るほど拳《こぶし》を握りしめて我慢しなければならないこともあります……。あなたはある詩人のこういう言葉を御存じですか。『自分の家にいてさえも、子供たちの間にいてさえも、女は虚偽の名誉にとり巻かれ、極悪な悲惨よりもはるかに重い軽蔑《けいべつ》を堪え忍ぶ。』そのことを考えてごらんなさい、クリストフさん……。」
「驚いたことを言われますね。僕にはよくのみ込めません。けれどなんだか少しは……ではあなた自身も……。」
「私はそういう苦しみを知りました。」
「ほんとうですか?……だがそんなことはどうでもいいです。あなたがあの女と同じようなことをされようとは、僕にはけっして信じられません。」
「私には子供がありませんよ、クリストフさん。あの女《ひと》の身になったらどんなことをしたかわかるものですか。」
「いいえ、そんなことはありません。僕はあなたを信じています。あなたを尊敬しすぎてるくらいです。そんなことはないと僕は誓います。」
「誓えるものではありません。私もあの女《ひと》と同じようなことをしかかったことがあります……。あなたからよく思っていただいてるのを打ちこわすのは、心苦しいことですけれど、あなたも、誤った考えをいだくまいと望まれるなら、私たち女のことを少しお知りにならなければいけません。――まったくです、私はあの女《ひと》と同じような馬鹿げたことを危うくするところでした。そして私がそれをしなかったのも、多少はあなたのおかげです。ちょうど二年前のことでした。私はそのころ、悲しみに身を噛《か》まれるような心地がしていました。いつもこう考えていました、私はなんの役にもたたない、だれも私に注意をしてはくれない
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