う》に等しくなる。女に向かって、汝は責任を帯びており、自分の身体や意志の主人であると、言ってみるがいい――女は実際にそうなるであろう。しかし諸君は卑怯なあまりに、それを言うのを差し控えている。なぜなら、女がそのことを知らないのが諸君に利益だからだ……。
ジャックリーヌは、その悲しむべき環境のために迷わされてしまった。彼女はオリヴィエから離れると、若いころ軽蔑《けいべつ》していたあの社会にまたはいり込んでいた。彼女や彼女の友人たる既婚婦人らのまわりには、若い男女の小さな社会ができ上がっていた。それらの若い男女はみな、富裕で、優美で、閑散で、怜悧《れいり》で、気弱だった。そこでは思想も話題も絶対に自由であって、ただ機知を交えられるために多少穏和になってるのみだった。一同は好んでラブレーの僧院の銘言を採用していた。
[#ここから3字下げ]
好きなことをやるべし[#「好きなことをやるべし」に傍点]
[#ここで字下げ終わり]
しかし彼らは多少|自惚《うぬぼ》れてるのだった。実際のところ大したことを望んではしなかった。テレームの衰弱者どもばかりだった。喜んで本能の自由を公言していた。しかし彼らのうちには、その本能がひどく衰微していた。彼らの放縦《ほうしょう》は主として頭脳的なものだった。文明の逸楽的な気のぬけた大|浴槽《よくそう》の中に浸り込む気持を、彼らは享楽していた。そのなまぬるい泥濘《でいねい》の浴場では、人間の精力、荒々しい生活力、原始的な動物性、その信仰や意志や熱情や義務の花などは、溶解してしまっていた。そういうゼラチンめいた思想の中に、ジャックリーヌの美しい身体は浴していた。オリヴィエはそれを妨げることができなかった。そのうえ彼自身も時代の病気にかかっていた。彼は愛する女の自由を拘束する権利が自分にあるとは思っていなかった。愛によってでなければ何物も得ようとは欲しなかった。そしてジャックリーヌは、自分の自由は自分の一つの権利であると思っていたので、オリヴィエの態度を別に感謝してもいなかった。
もっともいけないことには、彼女はその水陸|両棲《りょうせい》的な世界のうちに、あらゆる曖昧《あいまい》をきらう全き心をもってはいり込んでいた。彼女は一度信ずると、それに身を投げ出すのだった。熱烈で勇敢な彼女の小さな魂は、その自己主義の中においてさえ、がむしゃらに突進するのだ。そして彼女は、オリヴィエとの共同生活から得た道徳的な一徹さをまだ失わないでいて、それを不道徳な行ないにまで応用しようとしていた。
彼女の新しい友人らはきわめて用心深くて、自己の真相をなかなか他人に示さなかった。理論の上では、道徳と社会とのもろもろの偏見にたいして、完全なる自由を看板としていたが、実行においては、自分らの利益となるような人とは、真正面から仲違《なかたが》いすることのないように振る舞っていた。あたかも主人のものをごまかす不忠実な召使のように、彼らは道徳と社会とを悪用していた。習慣と閑散とのためにたがいに盗み合ってさえいた。自分の妻が情夫をもってることを知ってる者が幾人もいた。また細君のほうでも、夫が情婦をもってることを知らないではなかった。そして彼らはよく和合していた。人の噂《うわさ》がたたなければ憤慨しなかった。そういう仲のよい夫婦生活は、関係者たち――共犯者たちの間の暗黙な了解の上にたっていた。しかしジャックリーヌは彼らよりいっそうまっ正直であって、生一本《きいっぽん》な行動をしていた。一にも二にも真面目《まじめ》であり、常住不断に真面目だった。真面目ということもまた、当時の思想が激賞する美徳の一つだった。しかし、健全なる者にとってはすべてが健全であり、腐敗せる心にとってはすべてが腐敗であるということは、ここにおいて見られるのである。時としては、真面目であることがきわめて醜悪になる。凡庸な者どもにとっては、自分の胸底を読み取ろうとするのは悪いことである。彼らはそこに自分の凡庸さを読み取る。しかも自尊心を育てるだけのものはなお残っている。
ジャックリーヌは、鏡で自分の姿をながめてばかりいた。見ないほうがよろしいいろんなことを見て取った。見てしまった後ではもう、それから眼をそらすだけの力がなかった。それらを征服するどころか、それらがしだいに大きくなるのを認めた。非常に大きくなっていって、ついには眼も考えもそのほうに奪われてしまった。
子供は彼女の生活を満たすに足りなかった。彼女は乳が不足して、子供は衰えていった。乳母《うば》を雇わなければならなかった。初めはそれがたいへんつらかった――が間もなくそれは安堵《あんど》の念をもたらした。もう子供はたいへん丈夫になった。根強く元気に育ってゆき、少しも手数をかけず、たいてい眠ってばかりいて、夜もあまり泣かなかった。乳母――強健なニヴェルネー人で、幾度か子供に乳をやったことがあるが、そのたびごとに、動物的な嫉妬《しっと》深い煩雑な情愛を、乳児にたいしていだくのであった――その乳母のほうが、ほんとうの母親のようだった。ジャックリーヌが何か意見を言っても、乳母は勝手なことばかりしていた。ジャックリーヌは、いろいろ言い争ってみると、自分が何にも知っていないことに気づくのだった。彼女は子供を産んでから、健康が回復していなかった。初期の静脈炎《じょうみゃくえん》のために、がっかりして根気がなかった。幾週間もじっとしていなければならなくて、もどかしがっていた。焦燥した考えは、単調な幻覚的な同じ悲嘆をいつまでも繰り返していた。「ほんとうに生きたこともなかった、生きたこともなかった。そしてもう一生は終わってしまった……。」彼女の想念はいらだたせられていた。自分は永久に不具者になったのだと思っていた。そして、暗黙な苛辣《からつ》な口に出せない怨恨《えんこん》が、病苦の無辜《むこ》な原因者にたいして、子供にたいして、起こってきた。それは、人が思うほど珍しい感情ではない。ただ人はその上に覆《おお》いをかぶせてるだけである。それを実際に感じてる女たちでさえ、心の奥底でそれを承認するのを恥としている。ジャックリーヌは、みずから自分をとがめた。利己心と母性愛との間に争いが起こった。子供がいかにも幸福そうに眠ってるのを見ると、彼女の心は動かされた。しかしすぐそのあとで彼女は苦々《にがにが》しく考えた。
「この子が私を殺したのだ。」
そして彼女は、自分の苦しみで幸福を購《あがな》ってやったその子供の、無関心な眠りにたいするいらだたしい反抗を、押えつけることができなかった。彼女の身体が回復し子供が少し大きくなってからも、そういう敵意ある感情はおぼろげながら残っていた。彼女はその感情をみずから恥じたので、それをオリヴィエのせいだとした。彼女はやはり自分は病気であると思っていた。そして、病気の原因たる無為閑散――(子供からは離れ、働くことを強《し》いて禁ぜられ、まったく孤立してしまい、脂肪太りにされる家畜のように、寝床に長くなったまま腹いっぱい食わせられて過ごす、むなしい日々)――それを医者たちから勧められてますます生じてくる、いろんな不安、健康にたいする絶えざる懸念、などはついに彼女をして自分のことばかり考えさせるようになった。実際、神経衰弱にたいする近代の療法くらいおかしなものはない。それは自我の一つの病気に代うるに、自我の他の病気たる自我肥大症をもってするのである。なぜその利己心へ出血療法を行なわないのであろうか? もしくは、多すぎる血をもっていない場合には、精神的な剛健な反対療法によって、なぜその血液を頭から心へもどらせることをしないのであろうか?
ジャックリーヌは右の容態から脱した。肉体的には、前より強壮になり肥満し若返っていた――が精神的には、前よりいっそう病気になっていた。数か月の孤独な生活は、彼女をオリヴィエに結びつける思念のつながりを、最後のものまで断ち切ってしまった。オリヴィエのそばにとどまってる間は、いろんな弱点を有しながらも信念のうちに確固としてとどまってるその理想主義的な性格の威力を、彼女はなおこうむっていた。自分よりもしっかりしてる精神から隷属させられることに反抗し、自分を洞見《どうけん》して時とすると不本意ながらも自責の念を起こさせられるその眼つきに反抗して、彼女はいくら身をもがいても駄目《だめ》だった。けれども、偶然にもその男から離れると――その洞察《どうさつ》的な愛が自分の上にのしかかってくるのをもう感じなくなると――自分の身が自由になると――ただちに、二人の間になお存していた親しい信頼に引きつづいて、彼女のうちに起こってきたものは、自分自身を相手の手中に委《ゆだ》ねたという怨恨《えんこん》の情であり、もう実際に感じていない愛情の軛《くびき》を長らく負っていたという憎悪《ぞうお》の情であった……。相手に愛せられまた相手を愛してるらしい女の心の中に生ずる、一徹な怨恨を、だれが説明し得よう! 今日《きょう》と明日《あす》との間にすべては一変する。前日まで彼女は、愛していたし、愛してるようだったし、自分でも愛してると思っていた。しかし今日はもう愛していない。彼女が愛した男は彼女の考えの中では抹殺《まっさつ》される。男は自分が彼女にとってはもう無に等しいことを突然気づく。そして訳がわからなくなる。彼女のうちで行なわれていた長い間の働きを少しも見てとらなかったのである。自分にたいして積ってきた彼女のひそかな敵意を夢にも知らなかったのである。彼はそういう返報や憎悪の理由を感じようとはしない。その理由はたいてい遠い数多くのおぼろなものであって――あるいは、寝所の帷《とばり》の下に隠れたもの――あるいは、傷つけられた自尊心、気づかれ批判された心の秘密――あるいは……彼女自身にさえよくわからない、いろんなものである。知らず知らずなされたものでしかも彼女がけっして許し得ないほどの、ある隠れた侮辱が世にはある。男にはそれがどうしてもわからないし、女自身にもよくわかってはいない。しかしその侮辱は彼女の肉体の中に刻みつけられる。彼女の肉体はけっしてそれを忘れない。
愛情を流し去るこの恐るべき力にたいして戦うことは、オリヴィエとはまったく異なった性質の男でなければできないのだった――もっと自然に近く、もっと単純であるとともに撓《たわ》みやすく、感傷的な懸念に煩わされず、本能に富み、必要に応じては理性が認めない行動をもなし得るような男でなければ、できないのだった。ところがオリヴィエは前もって打ち負け落胆していた。彼はあまりに明敏だったので、ジャックリーヌのうちに、その意志よりも強い遺伝性があるのを、母親の魂がふたたび現われてきてるのを、長い前から認めていた。彼女がその種族の奥底に石のようにころがり落ちるのを、彼は見てとっていた。そして弱くかつ拙劣だったので、いくら骨折ってもますます彼女の墜落を早めるばかりだった。彼は静平にしていようとつとめた。しかし彼女は無意識的な考慮をめぐらして、彼を軽蔑《けいべつ》すべき理由を得んがために、その静平から脱せさせんとし、乱暴な激しい卑しいことを言わせようとした。もし彼が怒れば、彼女は彼を軽蔑した。もし彼がそのあとできまり悪がって恥ずかしい様子をすれば、彼女はいっそう彼を軽蔑した。また彼がもし怒らなければ、怒ろうとしなければ――こんどは、彼女は彼を憎んだ。そしてもっともいけないのは、顔をつき合わせながら幾日も黙り込んでることだった。人を窒息させ狂乱させるような沈黙で、それに浸っているともっともやさしい者でさえも、ついには狂暴になってきて、害したり怒鳴ったり怒鳴らしたりしたい欲求をときどき覚えるものである。そういう沈黙では、まっ暗な沈黙では、愛もまったく分散してしまい、人はあたかも天体のように、各自に自分の軌道に従って、暗黒の中に没してゆく。……ジャックリーヌとオリヴィエとは、たがいに接近するためになす事柄までがすべて疎隔の原因となるまでに、立ち至ってしまった。彼らの生活は堪えが
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