着の時と出発の時にこれをお示しなさい。気をつけて、人目をひかないようになさいよ。」
クリストフはも一度、故郷の土地に再会した。その土地とその地中にいる人々とだけ話を交えて、与えられた二日間を過ごした。彼は母の墓を見た。草が生《は》えていた。しかし近ごろ手向《たむ》けられた花があった。それと相並んで父と祖父とが眠っていた。彼は彼らの足下にすわった。墓は囲いの壁を背にしていた。壁の向こうの隘路《あいろ》に生えてる一本の栗《くり》の木が、影を投げていた。その低い壁越しに、金色の農作物が見えていた。なま暖かい風がそれに柔らかい波を打たせていた。うつらうつらしてる土地の上に太陽が照り渡っていた。麦畑の中には鶉《うずら》の鳴き声が聞こえており、墓の上には糸杉《いとすぎ》のやさしいそよぎが聞こえていた。クリストフはただ一人きりで、夢想にふけった。心は静かだった。膝《ひざ》のまわりに両手を組み背中を壁にもたせてすわりながら、空をながめていた。ちょっと眼瞼《まぶた》を閉じた。ああすべてがなんと簡素なことだろう! 彼は自分の家で骨肉の人々に取り巻かれてる心地がした。手を取り合ってるがように彼らのそばにじっとしていた。時間が流れ去っていった。夕方になって、小径《こみち》の砂の上に人の足音がした。墓守《はかもり》が通りかかって、そこにすわってるクリストフをながめた。クリストフはだれが花を手向《たむ》けたのかと尋ねた。ブイルの百姓女が年に一、二回やって来るのだと、男は答えた。
「ロールヘンだろう?」とクリストフは言った。
二人は話しだした。
「あなたは息子《むすこ》さんかね。」と男は言った。
「息子は三人あるよ。」とクリストフは言った。
「わしが言うのはハンブルグの息子さんでさあ。ほかの二人は悪くそれちゃいましてね。」
クリストフは頭を少しそらし加減にして、じっとして口をつぐんでいた。太陽は没しかけていた。
「もう閉《し》めますよ。」と墓守は言った。
クリストフは立ち上がって、墓守といっしょにゆっくりと墓地を一回りした。墓守は親切にしてくれた。クリストフは立ち止まっては碑名を読んだ。いかに多くの知人らがそこに集まってることだろう! オイレル老人――その婿――先のほうには、幼年時代の友だちや、いっしょに遊んだことのある少女たち――また彼方《かなた》には、心ときめく名前、アーダ……。すべての人たちに平和あれ……。
夕映えの光が、静かな地平を取り巻いていた。クリストフは墓地を出た。そしてなお長い間野の中を歩き回った。星が輝いてきた……。
翌日、彼はまたやって来て、その午後を前日の場所でふたたび過ごした。しかし、前日の黙々たる美しい静けさは元気づいていた。彼の心は呑気《のんき》な幸福な賛歌を歌っていた。彼は墓の縁石に腰をかけて、膝《ひざ》の上に開いた手帳に鉛筆で、聞こえてくる歌を書き取った。かくしてその日は過ぎた。昔の小さな自分の室で仕事をしてるような気がし、母が仕切りの向こうにいるような気がした。書き終えて立ち去らなければならないときになって――すでに墓から三、四歩遠ざかったときに――彼はふと思いついて、またもどって来、その手帳を葛《かずら》の下の草の中に埋めた。数滴の雨が落ち始めていた。クリストフは考えた。
「じきに消えてしまうだろう。それでいいのだ!……あなただけに差し上げます。他のだれにでもない。」
彼はまた河をも見た。馴染《なじ》み深い街路をも見た。そこには多くの変化があった。町の入口には、古《いにしえ》の稜堡《りょうほ》の跡の遊歩場に、アカシアの木立が植えられるのを昔彼は見たのだが、それがすっかりあたりを占領して、古い樹々《きぎ》を窒息さしていた。ケリッヒ家の庭をめぐらしてる壁に沿って行くと、悪戯《いたずら》っ児《こ》の時分にその広庭をのぞき込むためよじ登った、見覚えのある標石があった。そして彼は、その通りも壁も庭も非常に小さくなったのに驚かされた。正面の鉄門の前で彼はちょっと立ち止まった。また歩き出すときに馬車が一つ通った。彼はなんの気もなしに眼をあげてみた。生き生きした太った快活な若い婦人の眼にかち合った。向こうは彼を不思議そうに見調べていた。と彼女は驚きの声をたてた。彼女の合図で馬車は止まった。彼女は言った。
「クラフトさん!」
彼は立ち止まった。
彼女は笑いながら言った。
「ミンナですよ……。」
彼は初めて会った日とほとんど同じくらいに心を躍《おど》らして(第二巻朝参照)、彼女のそばに駆け寄った。彼女は一人の紳士といっしょだった。背が高く、でっぷりして、頭が禿《は》げ、得意げにぴんとはね上がった口髭《くちひげ》をもっていた。その男を彼女は、「高等法院顧問官フォン・プロムバッハ」――彼女の夫――だと彼に紹介した。彼女は彼に立ち寄ってもらいたがった。彼は辞退しようとした。しかし彼女は叫んだ。
「いえいえ、ぜひとも、寄ってくださらなければ、お食事をしに寄ってくださらなければいけません。」
彼女はたいへん高い声でたいへん口早にしゃべりだして、尋ねられるのも待たずに、もう身の上話を始めていた。クリストフはその快弁と声音とに耳鳴りがして、半分くらいしか聞き取れずに、彼女の顔をながめていた。それはまったくあのかわいいミンナだった。はなやかで、強健で、全身がはちきれそうに太って、きれいな皮膚、薔薇《ばら》色の顔色、だが顔だちは太く、鼻がことに丈夫で充実していた。身振り、態度、優しさ、すべてが以前のままだった。ただ容積が変わっていた。
彼女はなお話しつづけていた。昔話や、打ち明け話や、夫に愛し愛されてるありさまなどを、クリストフに語った。クリストフは当惑した。彼女は無批判な楽天家であって、自分の町や家や家庭や夫や自分自身を、完全でもっともすぐれたものだと思っていた」――(少なくとも、他人の前にいるときには)。彼女は夫の話をして、「これまで見た人のうちでももっとも堂々たる人物」であるとか、「超人間的な力」をもってる人であるなどと、その面前で言っていた。その「もっとも堂々たる人物」は、笑いながらミンナの頬辺《ほっぺた》をつついて、「卓越した女」であると、クリストフへ断言していた。この高等法院顧問官は、クリストフの身の上を知っているらしかった。そして、一方に彼の処刑があり、他方に彼をかばってる高貴な保護があるので、敬意をもって彼を取り扱うべきか、あるいは敬意なしに取り扱うべきか、はっきりわからないらしかった。で結局両方を交えた態度で取り扱おうと決心した。ミンナのほうは始終口をきいていた。自分のことをクリストフへ十分述べつくすと、こんどはクリストフのことを話しだした。彼が尋ねもしないのに非常に打ち解けた事柄まで話して聞かしたと同様に、きわめて打ち解けた事柄まで尋ねかけて彼を困らした。彼女は彼に再会したのをたいへん喜んでいた。彼の音楽については何にも知らなかったが、彼が有名になってることは知っていた。昔彼から愛されたことを――(そしてそれをしりぞけたことを)――ひそかに誇りとしていた。冗談の調子でかなり露骨にそのことをもち出した。彼女は自分の写真帳《アルバム》に彼の自署を求めた。彼女はパリーのことをしつっこく尋ねた。パリーにたいして好奇心と軽蔑《けいべつ》とを同じくらいにいだいていた。フォリー・ベルジュール座とオペラ座とモンマルトルとサン・クルーとを見たことがあるので、パリー全体を知ってると称していた。彼女の説によれば、パリーの女はみな娼婦《しょうふ》でよからぬ母親で、できるだけ子供を産まないし、子供を産んでもその世話をせず、家に打ち捨てておいて、自分は芝居や遊び場所に出入りしてるのであった。彼女はそれに反対されるのを許さなかった。その晩彼女は、クリストフへピアノで一曲演奏を求めた。彼をみごとな腕前だと賞賛した。けれど心の底では、夫の演奏にも同様に感心してるのだった。
クリストフがうれしかったのは、ミンナの母親ケリッヒ夫人に再会したことだった。彼はまだ彼女にたいしてひそかな愛情をもっていた。なぜなら彼女から親切にされたのだったから。彼女はやはりその温良さを少しも失わないでいた。そしてミンナよりいっそう自然だった。しかし彼女はやはりクリストフにたいして、昔彼をじれさしたあのちょっとしたやさしい皮肉を見せつけた。彼女は以前別れたときと少しも違っていなかった。あのときと同じ事柄を好んでいた。進歩したり変わったりすることを、彼女は許容できないらしかった。彼女は昔のジャン・クリストフと今日のジャン・クリストフとを対立さしていた。そして前者のほうを好んでいた。
彼女の周囲では、クリストフを除いてはだれも精神の変化をきたしてるものはいなかった。小都会の無変化やその天地の狭小さが、クリストフには苦しかった。一家の人たちは彼が知りもしない人々の悪口をもち出して、その晩の一部をつぶした。彼らは近所の人々の滑稽《こっけい》さをうかがってばかりいて、自分たちと違ってるものはみな滑稽だとしていた。たえずつまらぬことばかりにこだわってる不親切なそういう好奇心は、ついにクリストフに堪えがたい不快の念を起こさした。彼は外国での自分の生活を話そうと試みた。しかしすぐに、フランス文明を彼らに感じさせることが不可能なのを知った。フランス文明に彼は苦しめられてきたが、今自国においてそれを代表してると、至ってなつかしいものに思えるのだった――知力を第一の法則とする自由なラテン精神、「道徳」の規範を犯してまでできるだけ理解せんとする心。彼は一家の人たちのうちに、ことにミンナのうちに、自分が昔それから傷つけられながら忘れていたあの傲慢《ごうまん》な精神を、ふたたび見出したのだった――弱点と美点とから共に来る傲慢さ――自分の徳操を誇り自分が陥ることのない過失を軽蔑《けいべつ》する、その無慈悲な正直、申し分なきことにたいする尊重、「不規則な」優秀さにたいする顰蹙《ひんしゅく》的な軽蔑。ミンナは常に自分が正しいという落ち着いたもったいぶった確信をいだいていた。他人を批判するのになんらの度合いをも設けなかった。それに元来他人を理解しようとの念がなかった。自分のことばかりにかかわっていた。彼女の利己主義は漠然《ばくぜん》たる抽象的な色に塗られていた。「自我」が、「自我」の発展が、たえず問題であった。彼女はおそらく善良な女で人を愛することもできたであろう。しかし自分自身をあまりに愛していた。ことに自分自身をあまりに尊敬していた。「自我」の前で主の[#「主の」に傍点]祷《いの》り[#「り」に傍点]や聖母の祷り[#「聖母の祷り」に傍点]をたえず唱えてるがようだった。彼女が最愛の夫でも、彼女の「自我」の品位に相当した尊敬をたとい一瞬間でも欠くならば――(そのあとで彼がどんなに後悔しようとも)――彼女はまったくそして永久に彼を愛しやめるかもしれないらしかった……。ああ、その「自我」こそは悪魔にでもいってしまうがよい! 少しは「他」を考えるがよい!……
けれどもクリストフは、きびしい眼で彼女を見てはいなかった。平素はあれほどいらだちやすい彼だったが、今は大天使のような我慢強さで彼女の言葉を聞いていた。彼は彼女を批判すまいと心にきめていた。円光のごときもので、幼時の敬虔《けいけん》な思い出で、彼女を包んでおいた。そしてあくまでも彼女のうちに、小さなミンナの面影を求めようとした。それを彼女のある身振りのうちに見出せないではなかった。彼女の声音のある響きは、彼の心を動かす反響を喚《よ》び起こした。彼はそれらのもののなかに浸り込みながら、口をつぐみ、彼女の言葉には耳を貸さず、聴《き》いてるようなふうを装い、たえずやさしい敬意を示してやった。しかし気を一つに集めるのは困難だった。彼女はあまりに騒々しかった。彼女は昔のミンナの声を聞く邪魔となった。ついに彼は少し疲れて立ち上がった。
「可憐《かれん》なるミンナよ! お前がここにいることを、喚《わめ》きたてて僕を退屈させるこの美しいでっぷりした女のな
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