ん正直だからとて、クリストフに不利な契約を結んではいた。そしてその契約を守っていた。あまりによく守っていた。ある日クリストフは、自分の七重奏曲が四重奏曲に変えられてるのや、一連の二手用ピアノ曲が四手へ拙劣に書き直されてるのを、見出してたいへん驚いた。しかも彼へ無断でされてるのだった。彼はヘヒトのもとへ駆けつけて、その証拠の楽曲をつきつけながら言った。
「君はこれを承知ですか。」
「もちろんです。」とヘヒトは言った。
「よくも……よくも君は、僕の作品を書き改めることができましたね、僕の許しも求めないで!……」
「なんの許しをですか。」とヘヒトは平然として言った。「あなたの作品は私のものです。」
「また僕のものでもあるはずだ。」
「いいえ。」とヘヒトは静かに言った。
 クリストフは飛び上がった。
「僕の作品が僕のものではないんだって?」
「もうあなたのものではありません。あなたは私に売られたでしょう。」
「馬鹿なことを言っちゃいけない! 僕は原稿を売ったのだ。君はそれで勝手に金をこしらえたまえ。しかし原稿の上に書かれてるものは、僕の血なんだ、僕のものなんだ。」
「あなたはすべてを売られたのです。この作品の代わりに、私は三百フランお渡ししました。すなわち、原書が一部売れるに従って三十サンチームの割で、ちょうど限度です。それによってあなたは、あなたの作品についてのすべての権利を、なんらの制限も保留もなしに私へ譲られたのです。」
「作品を破壊する権利をも?」
 ヘヒトは肩をそびやかし、呼鈴を鳴らして、一人の店員へ言った。
「クラフトさんの帳簿をもっておいで。」
 彼は落ち着き払って、クリストフが読みもしないで署名したその契約の本文を、読んできかした。――それによれば、音楽出版業者がそのころなしていた契約の常則に従って、つぎのことが成立するのだった。――「ヘヒト氏は、著者のあらゆる権利と理由と訴権とを取得し、該作品を、いかなる形式においても、自己の利益のために、出版し、発行し、翻刻し、印刷し、翻訳し、貸与し、販売し、音楽会、奏楽珈琲店、舞踏会、劇場、などにて演奏させ、いかなる楽器にも、または言葉を付加することにさえ、作品を変更して、それを発行し、ならびにその表題を変更し……云々《うんぬん》、云々、の権利を、一手に有するものなり。」(契約原文どおり)
「ごらんのとおり、」と彼は言った、「私はかなり穏和のほうですよ。」
「なるほど、」とクリストフは言った、「僕は君に感謝すべきだ。君は僕の七重奏曲を寄席珈琲店の歌にでも変え得られたはずだから。」
 彼は両手に頭をかかえて、途方にくれて、口をつぐんだ。
「僕は自分の魂を売っちゃった。」と彼は繰り返していた。
「御安心なさい。」とヘヒトは皮肉に言った。「私は無茶なことはしませんから。」
「いったいフランス共和国が、こんな取引を許すとは!」とクリストフは言った。「君たちフランス人は、人間は自由だと言っていながら、思想を競売してるのだ。」
「あなたは代価を受け取られたでしょう。」とヘヒトは言った。
「貨幣三十枚、そうだ。」とクリストフは言った。「それを返すよ。」
 彼はヘヒトへ三百フランを返そうと思って、ポケットを探った。しかしそれだけの金をもたなかった。ヘヒトはやや蔑《さげす》むように軽く微笑《ほほえ》んだ。その微笑にクリストフは腹をたてた。
「僕は自分の作品がいるのだ。」と彼は言った。「作品を皆買いもどすよ。」
「あなたにはそうする権利はありません。」とヘヒトは言った。「しかし私は人を無理につなぎ止めたくありませんから、あなたにお返しすることを同意しましょう――至当な補償金を出してくださることができれば。」
「するとも、」とクリストフは言った、「僕自身の身体を売っても。」
 彼はヘヒトが二週間後にもち出してきた条件を、文句なしにすべて承諾した。まったく狂気|沙汰《ざた》ではあったが、彼は初めもらった金高より五倍もの価で、自分の作品全部の版権を買いもどすことにした。五倍というのも誇張ではなかった。なぜなら、ヘヒトがそれらの作品によって得た実際の利益に従って、細密に計算された代価だったから。クリストフはそれを払うことができなかった。ヘヒトの予期したとおりだった。ヘヒトはクリストフを、芸術家としてまた人間として他の青年音楽家のだれよりも高く評価していたので、彼をいじめるつもりではなかった。しかし彼に訓戒を与えたいのだった。彼は自分の権利に属する事柄に人から反抗されるのを許し得なかった。彼があれらの契約規定をこしらえたのではなかった。それは当時の規定だった。それゆえに彼はそれを正当なものだと思っていた。そのうえ彼は、それらの規定は出版者のためになるとともに著者のためにもなるものだと、真面目《まじめ》に信じていた。なぜなら、出版者は作品を広める方法を著者よりもよく知っているし、尊敬すべきではあるがしかし著者の真の利益には相反するいろんなくよくよした心づかいに、著者ほど拘泥《こうでい》しはしないからである。彼はクリストフを成功させようと考えていた。しかしそれは彼一流の仕方においてであって、クリストフが手も足も出せないで全身を任せてきたらという条件においてであった。自分の世話からそうたやすく脱せられるものではないということを、彼はクリストフに感ぜさせたかった。二人は条件付きの取引契約をした。もしクリストフが六か月の猶予期限内に金を払い得ないときには、作品はまったくヘヒトの所有に帰するということにした。クリストフが所要の金額の四分の一も集め得ないだろうということは、予知するにかたくはなかった。
 それでもクリストフはがんばってみた。思い出の深いその部屋を捨てて、もっと安い住居へ移った。――いろんな品物を売り払った。それがどれも価のない物ばかりなのに、彼はたいへん驚いた。――金を借りた。モークの好意にすがった。がおり悪《あ》しくモークはそのころ、リューマチで家から出られなくて、ひどく不如意がちで病んでいた。――他の出版屋を捜した。しかしどこへ行っても、ヘヒトのと同じく偏頗《へんぱ》な条件に出会ったり、あるいは断わられたりした。
 それはちょうど、彼にたいする攻撃が、新聞雑誌の音楽欄でもっとも盛んな時期だった。パリーのおも立った新聞の一つが、ことに熱心だった。その編集者の一人は、名前を出さずに、彼を猛烈に非難していた。エコー[#「エコー」に傍点]新聞には、彼を馬鹿にした邪悪な小文が毎週現われた。その音楽批評家は、名前を隠してる同業者の仕事を手伝っていた。わずかの口実さえあれば、ついでに恨みを晴らそうとしていた。しかしそれはまだ最初の小競《こぜ》り合いにすぎなかった。ゆっくりやっていて、そのうちにほんとうの攻撃に着手すると、彼はほのめかしていた。彼らは少しも急いではいなかった。はっきりした非難を加えるよりも執拗《しつよう》に諷示《ふうし》を繰り返すほうが、公衆には利目《ききめ》が多いことを、彼らはよく知っていた。彼らは猫《ねこ》が鼠《ねずみ》に戯れるように、クリストフをもてあそんでいた。クリストフはそういう論説を送られて、それを軽蔑《けいべつ》したが、やはり苦にならないではなかった。それでも彼は黙っていた。そんなものに答え返す代わりに――(答え返そうとしても彼にはそれが果たしてできたろうか?)――彼は自分の出版者との無益な不釣《ふつ》り合いな自負心の争いに固執していた。そして時間と力と金とを失い、唯一の武器まで失っていた。というのは、ヘヒトが彼の音楽のためにしてくれる広告を、彼は喜んで見捨てようとしていたから。
 すると突然、万事が変わった。新聞に予告された論説は現われなかった。諷示も消え失《う》せてしまった。戦いはぴたりとやんだ。なおそればかりでなく、二、三週間後には、その新聞の批評家がついでにといったふうで、賞賛的な数行を発表した。和解が成立したかのような調子だった。ライプチヒのある大出版者は、彼の作品を出版しようと申し込んできた。その契約は有利な条件で結ばれた。オーストリア大使館の印章がついてる丁寧な手紙が来て、大使館で催される大夜会の番組のうちに、彼の作品を数種加えたいとの希望を伝えた。クリストフが贔屓《ひいき》にしていたフィロメールは、その大夜会にいつか一度、演奏を聞かしてほしいと頼まれた。その後引きつづいて彼女は、パリー在住のドイツやイタリーの貴族たちから、客間の演奏をたびたび頼まれた。クリストフ自身も、それらの音楽会に招かれて、その一つにやむを得ず行ってみると、大使から非常に歓待された。それでも少し話をしてみると、大使はあまり音楽趣味がなくて、彼の作品については少しも知るところがなかった。ではいったい、こういう突然の同情はどこから生じたのだろうか? 見えざる一つの手が、彼を庇護《ひご》してくれ、障害を除いてくれ、道を平らにしてくれてるがようだった。クリストフは探ってみた。大使はそれとなく彼の二人の味方をほのめかした。それはベレニー伯爵夫妻であって、彼に非常な好意をいだいてるのだった。クリストフはまだその二人の名前さえ知らなかった。大使館へ来た晩には、二人に紹介される機会がなかった。が彼は強《し》いて二人を知ろうとはしなかった。彼はちょうど人間が嫌《きら》いになったときであって、味方をも敵をも同様に信用していなかった。味方も敵も同じように不確かなものだった。ちょっとした風の調子で変わってしまうのだった。そういうものなしにやってゆけることを学ばなければいけなかった。十七世紀のあの老人のように言わなければいけなかった。

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 神は予に友人らを与え、しかしてまた彼らを予より奪えり。友人らは予を捨てて去りぬ。予も彼らを捨てて、彼らのことを述べじ。
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 彼がオリヴィエの家を立ち去って以来、オリヴィエはもう生きてるしるしだも見せなかった。二人の間は万事終わったらしかった。クリストフは他に新たな友情を結びたくなかった。彼はベレニー伯爵夫妻をも、味方だと自称する多くの当世才士らと同様だろうと想像した。そして彼ら二人に会おうとは少しも努めなかった。むしろ二人から逃げたかった。
 彼が逃げたいのはパリー全体からだった。なつかしい静寂の地に数週間逃げ込みたかった。ああ数日間、ただ数日間でも、故郷の地に身を置くことができたら! そういう考えがしだいに病的な願望となってきた。あの河や空や故人の土地をふたたび見たかった。ふたたび見ないではいられなかった。しかし、一身の自由を賭《と》してでなければそれができなかった。ドイツから逃亡当時の逮捕令状のもとにまだあるのだった。しかし彼は、ただ一日でもいいから立ちもどるためには、どんな狂気じみたことをもやりかねないという気がした。
 仕合わせにも彼はそのことを、新しい保護者の一人に話した。ドイツ大使館付の青年外交官が、彼の作品が演奏される夜会で彼に出会って、故国は彼のような音楽家を有するのを誇りとしてると言ったとき、彼は苦々《にがにが》しげに答えた。
「故国は私をあまりに誇りとしていますから、私に戸を開いてくれずに、門前で私を死なせようとするのでしょう。」
 青年外交官はその事情を話さした。そして数日後に、クリストフに会いに来て、彼に言った。
「上のほうではあなたに同情していますよ。あなたに加えられてる判決の効果を停止する権能がある、ただ一人のごく高い地位にある人が、あなたの境遇をきかれて、たいへん心を動かされたようです。あの方がどうしてあなたの音楽を好きになられたのか、私には合点がいきません。というのは――(この場限りの話ですが)――あまり上等な趣味をそなえてる人ではありませんからね。しかし物がよくわかって寛大な心をもっていられます。あなたに下されてる判決を目下のところでは取り去るわけにゆきませんが、もしあなたが家の人たちに会うために、故郷の町で四十八時間だけ過ごされるのなら、大目に見てやろうとのことです。これがその旅行券です。到
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