めに、彼の愛はある程度まで維持されていた。しかし、彼は繊細な感受性をそなえていたし、愛する者の心のなかに起こるすべての変動は彼の心にも伝わっていたので、ジャックリーヌが隠してる不安の情は彼にも感染してきた。
ある日の午後、彼らは田舎《いなか》を散歩した。前からすでに楽しかった。すべてが微笑《ほほえ》んでいた。しかし散歩に出るや否や、陰鬱《いんうつ》な懶《ものう》い悲しみが彼らの上に落ちかぶさってきた。冷えきったような心地がした。口をきくことができなかった。それでも強《し》いて話をした。しかし口に出す一語一語は、空虚を響かせるばかりだった。彼らはあたかも自動人形のように、何にも見も感じもしないで散歩を終えた。切ない気持で帰ってきた。黄昏《たそがれ》のころだった。部屋の中はがらんとしていて暗くて寒かった。彼らは自分たちの姿が見えないようにすぐには燈火もつけなかった。ジャックリーヌは自分の室に入って、帽子や外套《がいとう》もぬがないで、黙って窓ぎわにすわった。オリヴィエも隣の室でテーブルによりかかっていた。間の扉《とびら》は開いていた。彼らはたがいの息の音が聞こえるほど近かった。そして薄暗がりのなかで二人とも、無言のまま苦《にが》い涙を流した。口に手をあてて泣き声を聞かれまいとした。ついにオリヴィエは苦しくなって言った。
「ジャックリーヌ……。」
ジャックリーヌは涙をのみ込んで言った。
「なあに?」
「こちらへ来ないかい?」
「行きますわ。」
彼女は外出着をぬいで眼を洗いに行った。彼は燈火をつけた。やがて彼女は室にもどってきた。二人は顔を見合わせなかった。たがいに泣いたことを知っていた。そして慰め合うこともできなかった。泣いた理由がわかっていたから。
彼らはもはや心の悶《もだ》えをたがいに隠し得ない時期となった。そしてその原因を自認したくなかったので、他の原因を捜し求めた。それは見出すに困難でなかった。彼らは地方生活の退屈さに罪を着せた。それは彼らにとって一つの慰藉《いしゃ》だった。ランジェー氏は娘から様子を知らせられたが、彼女がその勇侠《ゆうきょう》な気持に疲れ始めたことを大して驚きはしなかった。彼は政治上の知友関係を利用して、婿をパリーへ転任さしてもらった。
その吉報が到着したとき、ジャックリーヌは喜びに躍《おど》り上がって、過ぎ去った幸福をみな取りもどした。今や別れ去る場合になると、その厭《いや》な土地も彼らにはなつかしく思えた。彼らはそこに多くの愛の思い出を振りまいていた。終わりの日々はその跡を捜し回ることに費やした。そういう一種の巡礼からやさしい憂愁が立ちのぼってきた。その穏やかな一望の風物は幸福な二人を見たのだった。ある内心の声が彼らにささやいていた。
「お前はお前が残してゆくものを知っている。これから見出そうとするものを知っているか?」
ジャックリーヌは出発の前日涙を流した。オリヴィエはその訳を尋ねた。彼女は言いたがらなかった。彼らは言葉の響きが恐《こわ》いおりにはいつもしていたとおりに、一枚の紙を取ってたがいに書き合った。
「私の親愛なオリヴィエ……。」
「僕の親愛なジャックリーヌ……。」
「立ち去るのは切ない気がします。」
「どこから立ち去るのが?」
「私たちが愛し合った土地から。」
「どこへ向かって?」
「私たちが年老いる所へ。」
「僕たちが二人で暮らす所へ。」
「けれどもうあんなに愛し合えはしませんもの。」
「なおいっそう愛し合うのだ。」
「どうだかわかりませんわ。」
「僕にはわかっている。」
「私もそう願いたいわ。」
そこで彼らは紙の下のほうに二つの輪を書いて、抱擁し合う意味を表わした。それから、彼女は涙を拭《ふ》き、笑顔をした。そして、丸襞襟《まるひだえり》のような立ち襟の白い短|外套《がいとう》と縁なし帽子とを彼に着せかけて、アンリー三世の小姓《こしょう》みたいに仕立てた。
パリーで彼らは、以前別れた人々と再会した。けれどももう皆様子が違っていた。クリストフもオリヴィエが到着した報に接して、大喜びで駆けつけていった。オリヴィエも彼と会うのが同様にうれしかった。しかし初め一目見たときから、彼らは意外な窮屈さを感じた。二人ともそれを押しのけようとしたが、だめだった。オリヴィエはたいへん優しかったけれど、彼のうちには何か変わったものがあった。クリストフはそれを感じた。結婚した友はいかにつとめても、もはや昔どおりの友ではない。男の魂にはもうかならず女の魂が交じっている。クリストフはオリヴィエのうちの至るところ、眼つきのとらえがたい輝きのうちに、見覚えのない唇《くちびる》の軽い皺《しわ》のうちに、声や思想の新しい抑揚のうちに、女の魂を嗅《か》ぎ取った。オリヴィエはそれにみずから気づいていなかった。しかし彼は、別れたときとはたいへん違ってるクリストフを見て驚いた。クリストフが変わったのだとまでは考えなかった。自分のほうが変わったのだと認めた。けれどそれは、年齢から来る尋常な進化であると思われた。そしてクリストフのうちに同様の進歩が見えないのに驚いた。クリストフがいつまでも同じ思想のうちにとどまってるのが、不満でたまらなかった。それらの思想は、以前は彼にも尊いものだったが、今はもう幼稚な流行遅れのもののような気がした。というのは、彼が知らないまに彼のうちにはいり込んだも一つの他の魂の流儀に、それがかなっていなかったからである。そういう感じは、ジャックリーヌが話に加わるときいっそうはっきりしてきた。するとオリヴィエとクリストフとの眼の間に、皮肉の帷《とばり》がはさまってきた。それでも彼らはたがいに自分の感銘を隠そうと努めた。クリストフはやって来るのをやめなかった。ジャックリーヌは意地悪い刺々《とげとげ》した小さな矢を、なんの気なしに彼へ投げつけた。彼はそれを勝手にさしておいた。しかし自分の家に帰ると悲しくなった。
パリーで過ごした初めの幾月かは、ジャックリーヌにとって、したがってまたオリヴィエにとっても、かなり幸福な時だった。初め彼女は、住居のことに気を奪われた。二人はパッシーの古い通りに、ちょっとした庭に面した小ぎれいな部屋《へや》を見出していた。家具や張り紙を選択することが数週間の仕事だった。ジャックリーヌはそのために、非常な精力と大袈裟《おおげさ》な熱情をさえも費やした。あたかも彼女の永遠の幸福が、壁紙の色合いや古|戸棚《とだな》の横顔にでも基づいてるかのようだった。つぎに彼女は、父や母や友人らとふたたび交わりだした。彼女は恋愛の間彼らをすっかり忘れていたので、それはまったく再発見と同様だった。彼女の魂がオリヴィエの魂に交じっていたとしても、オリヴィエの魂も多少彼女の魂に交じっていて、彼女は新しい眼で旧知の人々を見たので、ますますその感じが深かった。彼女には彼らがりっぱな者に思われた。と言ってそのために、初めのうちはオリヴィエの価値が減じはしなかった。両者はたがいに価値づけ合っていた。夫の精神的沈潜や詩的な薄ら明かりは、ジャックリーヌをして、享楽や光輝や他人の好感などをのみ求めるそれら社交界の人々のうちに、より多くの愉悦を見出さしめた。また、自分が属していただけによく知ってる社交界の魅惑的なしかし危険な欠点は、彼女をして、夫の心の堅実性を高く評価せしめた。彼女はそういう比較を面白く思い、自分の選択を正当視するために長くそれをつづけた。――あまり長くつづけるうちには、どうして自分が今の選択をしたのかもうわからなくなる瞬間さえあった。仕合わせにもその瞬間は長つづきしなかった。彼女はそれをみずからとがめたので、そのあとではオリヴィエにたいしてこの上もなくやさしかった。がそうすることによって、彼女はまた比較を始めだした。それが習慣となってしまうと、もう面白みは覚えなくなった。そして比較はいっそう辛辣《しんらつ》になった。相反した二つの世界は、たがいに補い合うどころか戦いを始めた。パリーの友人らのうちに自分が現在味わってるいろんな長所を、のみならずまた短所の多少をも、どうしてオリヴィエがもっていないのだろうかと、彼女は考えてみた。彼女はそのことを彼に言いはしなかった。しかしオリヴィエは、自分を用捨なく観察してる妻の眼つきを感じた。彼は不安と心痛とを覚えさせられた。
けれども彼はなお、恋愛から与えられた優越権をジャックリーヌにたいして失ってはいなかった。そしてこの若い夫婦は、やさしい勤勉な親愛の生活をかなり長くつづけてゆけるはずだった。ところがある事情のため、生活の物質的条件が一変をきたして、その脆《もろ》い平衡を破ってしまった。
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そこにてわれらは大敵プルートーを見出せり[#「そこにてわれらは大敵プルートーを見出せり」に傍点]……。
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ランジェー夫人の姉妹の一人が死亡した。それは富裕な工業家の寡婦であって、子供がなかった。でその財産はすべてランジェー家に渡った。ジャックリーヌの財産もそのためにたいへん増加した。その相続財産がやって来たとき、オリヴィエは金銭に関するクリストフの言葉を思い出して、こう言った。
「そんなものはなくてもいいじゃないか。かえって禍《わざわい》になるかもしれない。」
ジャックリーヌは嘲笑《あざわら》った。
「馬鹿なことをおっしゃるわね。」と彼女は言った。「禍になるなんてことがあるものですか。第一私たちの生活だって、そのためにちっとも変わりはしないでしょう。」
実際二人の生活は表面上少しも変わらなかった。まだ財産が足りないというジャックリーヌの嘆声がしばらくして聞かれたほど、同じような生活だった。しかしそれこそ、何か変わったものがある明らかな証拠だった。彼らの収入が二倍三倍したのは事実であるが、何に使ったかわからないまにそれがみななくなっていった。以前どうして暮らしてゆけたかが怪しまれるほどだった。金はみないろんな新しい費用のために吸い取られて消えていった。それらの費用もすぐに習慣的となり欠くべからざるものとなった。ジャックリーヌは一流の仕立屋と近づきになっていた。子供のときから知ってる日雇いの出入りの仕立屋とは、手を切ってしまっていた。つまらないものでできてはいるがそれでもなおきれいな、あの廉価な小さい帽子をかぶってた時代――非のうちどころのないほど優美なものではないが、しかし彼女の容姿を反映して輝き、彼女自身の一部とも言うべき、あれらの服をつけていた時代、それはどこへいってしまったのであろう? 彼女の身のまわりに光被していた親和な落ち着いた魅力は、日に日に消えていった。彼女の詩趣は融《と》け去っていった。彼女は通俗な女となってしまった。
彼らは住居を変えた。あれほどの苦心と喜びとで定めた住居は、もう狭く醜いものに思われた。すっかり魂がこもって輝き渡り、窓にはなつかしい一本の木がその細長い姿を揺すってる、あのささやかな小さな室々を捨てて、自分たちが好みもせず好むこともできず退屈でたまらない、広い安楽な間取りのいい部屋に移った。馴染《なじ》み深い古い品物の代わりに、親しみのない道具や壁紙を取り付けた。もはやどこにも思い出をこめる場所がなかった。共同生活の初めのころのことは、すっかり頭から追い払われた……。過去の恋愛に二人を結び付ける絆《きずな》が断たれるのは、いっしょになってる二人にとっては大なる不幸である。その過去の面影は、初めの情愛のあとに必然起こってくる落胆や敵視にたいして、二人を保護してくれるものなのである……。容易に金が使えるためにジャックリーヌは、パリーや旅行中で――(金持ちとなった今では二人はしばしば旅していた)――富裕無用な人々の階級に接近した。そして彼らと交際してるうちに、他の人々にたいして、働いてる人々にたいして、一種の軽侮の念を起こさせられた。彼女は驚くべき順応力によって、それらの廃頽《はいたい》した無駄《むだ》な魂とすぐ同化した。それに抵抗することができなかった。するとただちに憤然と
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