…。」

 しかしオリヴィエは、なおその他のものがなくてもやってゆける道を覚えていた。芸術もクリストフもなくて構わなかった。そのころ彼はもうジャックリーヌのことしか考えていなかった。

 彼らの恋愛の利己主義は、彼らのまわりに空虚をこしらえ出していた。そして浅慮にも、将来の源泉をすべて焼きつくしていた。

 交じり合った二人の者がたがいに相手を吸い取ろうとばかり考えてる、初めの間の陶酔……。身体と魂とのあらゆる部分で、彼らは触れ合い、味わい合い、たがいにはいり込もうとする。彼らは二人だけで、法則のない一つの世界をなし、恋に駆られた一つの渾沌《こんとん》界をなしている。そこでは混同し合った各要素が、たがいに見分けることをまだ知らず、たがいに争ってむさぼり食う。二人はたがいに相手のうちにあるすべてのものを歓び合う。相手もまた自分自身なのである。世界も今は何になろう? なごやかな逸楽の夢に眠ってる古《いにしえ》のアンドロジーヌのように、彼らの眼は世界に向かって閉じている。世界はすべて二人のうちにあるのである。
 一様な夢の織り物をこしらえ出す昼と夜、美《うる》わしい白雲が、眩惑《げんわく》せる人の眼にただ輝ける跡をのみ残して空を過《よぎ》ってゆくように、流れ去る時間、春の懶《ものう》さで人を包む、なま温かい息吹《いぶ》き、肉体の金色の熱、日に照らされた愛の葡萄棚《ぶどうだな》、清浄な無羞恥《むしゅうち》、狂おしい抱擁、溜息《ためいき》や笑い、楽しい涙、おうそれら幸福の埃《ほこり》よ、汝から何が残るか? 汝は人の心にほとんど思い出の跡をもとどめない。なぜなら、汝がありし時には時間が存在していなかったのだから。
 まったく同じような日々……。静かな曙《あけぼの》……。眠りの淵《ふち》から、からみ合った二つの身体が同時に浮かび出る。息を交えて微笑《ほほえ》める顔が、いっしょに眼を開き、たがいに見合わし、たがいに接吻《せっぷん》し合う……。朝の時刻の若々しい爽《さわや》かさ、燃ゆる身体の熱を鎮《しず》める新鮮な空気……。夜の快楽がその奥に響きをたててる、つきせぬ日々の快い夢心地……。夏の午後、畑の中で、天鵞絨《ビロード》のごとき牧場の上で、長い白楊樹《はくようじゅ》のさらさらと鳴る下で、うっとりとふける夢想……。腕と手とを組み合わせ、輝ける空の下を、愛の臥床《ふしど》へ連れだってもどり来るおりの、美《うる》わしい夕《ゆうべ》の夢想。風は灌木《かんぼく》の枝をそよがしている。湖水のように澄み渡った空には、銀色の月の仄《ほの》白い微光が漂っている。星が一つ流れて消える――心へ伝わるかすかなおののき――音もなく滅びる一つの世界。街道には二人のそばを、足を早めた無言の人影がまれに通り過ぎる。町の鐘は翌日の祭りを告げて鳴る。二人はちょっと歩みを止める。彼女は彼に身を寄せる。二人は言葉もなくたたずむ……。ああ、この瞬間のように、人生がこのままじっとしているならば!……彼女は溜息《ためいき》をもらして言う。
「なぜ私はこんなにあなたが恋しいのでしょう?……」

 彼らはイタリーへ数週間旅をした後、オリヴィエが教師に任命されたフランス西部の町に、身を落ち着けたのだった。彼らはほとんどだれにも会わなかった。何事にも興味を覚えなかった。やむを得ず訪問する場合には、その厭《いや》な冷淡さが無遠慮に現われたので、人々は気持を害したりあるいは苦笑をもらしたりした。どんな言葉も二人の上をすべり落ちてその心まで達しなかった。二人は若夫婦特有の横柄なしかつめらしさをそなえていて、人に向かってこう言うかのようだった。
「君たちには、何にもわからないのだ……。」
 ジャックリーヌのやや不機嫌《ふきげん》そうな専心的なきれいな顔の上に、またオリヴィエの楽しげなぼんやりしてる眼の中に、つぎの思いが読み取られるのだった。
「僕らがいかに君たちをうるさがってるか、少しは察してくれてもよさそうなものだ……。いつになったら僕らは二人きりになれることかしら?」
 彼らは人中にいるときでさえ、無遠慮に二人きりの心持を様子に示した。他人との会話をそちのけにして二人の眼つきが話を交えてるのが、傍《かたわ》らから見てとられた。彼らはたがいに顔をながめなくとも、たがいに見てとることができた。そして彼らは微笑《ほほえ》んでいた。二人とも同時に同じことを考えてるとわかっていたのである。社交的な多少の束縛を脱して、ほんとに二人きりになるときには、喜びの叫びを発して、子供らしい馬鹿げたことをしつくした。あたかも七、八歳の子供のようだった。ばかばかしい口のきき方をした。おかしな愛称で呼び合った。彼女は彼のことを、オリーヴ、オリヴェー、オリファン、ファニー、マミー、ミーム、ミノー、キノー、カウニッツ、コジーマ、コブール、パノー、ナコー、ポネット、ナケー、カノー、などと呼んだ。そして自分は小娘のようなふうをした。しかし彼女は彼にたいして、母親や姉妹や妻や恋人や情婦など、あらゆる愛情を一つにした者でありたがっていた。
 彼女は彼の楽しみを分かちもつだけでは満足しなかった。かねて考えていたとおり、彼の仕事にもいっしよに加わった。それもまた一つの遊びであった。初めのうち彼女は、仕事を珍しがってる細君に通有な、興味深い熱心さを示した。図書館へ行って書き写してくることだの、面白くもない書物を翻訳することなど、きわめてつまらない仕事にも、楽しみを見出してるかのようだった。それは彼女の生活の予定の一部分だった。ごく純潔なごく真面目《まじめ》な生活、高尚な思想と共同の勉励とにささげつくした生活、それを彼女は営むつもりだった。そして、恋愛が二人を輝かしてる間はそれも結構だった。なぜなら彼女は、彼のことばかり考えていて、自分が何をしてるかは考えていなかったから。もっとも奇態なことには、そういうふうにして彼女がなすことはことごとくうまくいった。他のときだったら理解しがたいような抽象的な書物を読んでも、彼女の精神はなんらの努力もなしに働いた。彼女の一身は恋愛のために地上からもち上げられてるかのようだった。彼女はそれを自分では気づかなかった。屋根の上を歩く夢遊病者のように、自分の真面目《まじめ》な楽しい夢を、傍目《わきめ》もふらずに平然と追っかけていた……。
 やがて彼女は、その屋根に気づき始めた。それでも少しも不安を覚えなかった。でも屋根の上で何をしていたかをみずから怪しんで、家の中にはいった。すると仕事が厭《いや》になった。仕事のために愛が邪魔されてると思い込んだ。もちろんそれは彼女の愛がすでに弱ってきたからのことである。しかしそんな様子は少しも見えなかった。彼らはもう一瞬間も離れてることができなかった。世間との交渉を断ち、家の扉《とびら》を閉ざし、いかなる招待をも承諾しなかった。他人の愛情にも、自分らの仕事にも、たがいの愛から気をそらさせるすべてのことに、嫉妬《しっと》の念を覚えた。クリストフとの通信も間が遠くなった。ジャックリーヌはクリストフを好んでいなかった。彼女にとって彼は一つの敵であって、彼女があずかり知らぬオリヴィエの過去の一部を代表していた。そして彼がオリヴィエの生活のうちに場所を占むれば占むるほど、ますます彼女は本能的にオリヴィエの生活を彼から奪い取ろうとした。自分のためにする下心からではなかったが、ひそかにオリヴィエを友から引き放そうとした。クリストフの態度や顔つきや手紙の書き方や芸術上の抱負などを冷笑した。それにはなんらの悪意もまた策略さえもなかった。善良な性質からそんなことをするのだった。オリヴィエは彼女の批評を面白がった。そこに少しも悪意を認めなかった。そして自分はやはり同じようにクリストフを愛してると思っていた。しかし彼が愛してるのはもうクリストフの一身をだけだった。それは友情においては些々《ささ》たることにすぎない。彼はしだいにクリストフを理解しなくなってきたことや、二人を結びつけていたクリストフの思想や勇壮な理想主義に興味を失ってきたことには、みずから気がつかなかった……。恋愛は若い心にとってはあまりに強い楽しみである。他のいかなる信仰が恋愛と両立し得るだろうか? 愛する者の身体とその神聖な肉から摘み取られる魂とだけが、知識の全部であり信仰の全部である。他人が大事にしてるものも、また自分が昔大事にしていたものも、いかに憐《あわ》れみの微笑でながめられることであろう! 力強い人生とその苛辣《からつ》な努力とについても、もはや眼にはいるものは、不滅らしく思える一時の花ばかりである……。恋愛はオリヴィエを奪い取っていた。初めのうちは彼の幸福もなお、優雅な詩になって現われるだけの力をもっていた。がやがて彼には、それさえもつまらぬことのように思えてきた。恋愛からそれだけの時間を取り去ることにすぎなかった。そしてジャックリーヌも彼と同じく一生懸命になって、他のあらゆる生存の理由を破壊せんとし、愛の葛《かずら》を支持し生かしてる生の樹木を枯らさんとしていた。かくて彼らは二人とも幸福のうちに身を滅ぼしていった。

 悲しくも、人はたちまちにして幸福に馴《な》れ親しむ。利己的な幸福が生の唯一の目的となるときには、生はただちに目的なきものとなる。幸福は一つの習慣となり、一つの中毒となって、人はもはやそれがなくては済まされなくなる。しかもそれがなくても済ませることが必要なのだ……。幸福は世界の律動《リズム》の一瞬間であり、生の振子が往来する両極の一つである。その振子を止めんとするには、それを破壊しなければならないだろう……。
 二人は「感受性を狂暴ならしむる安逸の[#「感受性を狂暴ならしむる安逸の」に傍点]倦怠《けんたい》」を知った。楽しい時期は、歩みをゆるめ、勢い衰え、水なき花のようにしおれていった。空はやはり同様に青かったが、もはや朝の軽やかな空気はなかった。すべては小揺るぎもせず、自然は黙していた。彼らは願っていたとおり二人きりだった。――そして二人の心は切なかった。
 言い知れぬ空虚の感じが、楽しくなくもない漠然《ばくぜん》たる倦怠が、彼らに姿を見せてきた。彼らはそれがなんであるかを知らなかった。ただなんとなく不安だった。彼らは病的なほど感じやすくなった。沈黙をじっと聞き澄ましてる彼らの神経は、人生の些細《ささい》な不意の出来事にぶつかっても、木の葉のようにうち震えた。ジャックリーヌは理由もなしに涙を流した。涙の原因は愛であると信じたかったけれども、もうそればかりではなかった。結婚前の熱烈な苦しい年月を経て後、目的を達して――達してそして通り越して――突然あらゆる努力をやめ、あらゆる新しい行ないが――そしておそらくあらゆる過去の行ないが――にわかに無用に帰したので、彼女は自分でも訳のわからない惑乱に陥って、圧倒されてしまったのだった。彼女はそうだとは認めないで、神経の疲れのせいだとして、一笑に付し去ろうと思った。しかしその冷笑は涙と同様に不安なものだった。彼女は健気《けなげ》にもまた仕事にかかろうと努めた。けれど手をつけるや否や、そんなばかげた仕事に以前どうして興味をもち得たか、もうわからなくなった。厭《いや》になって仕事を放り出した。彼女は社交的関係にふたたびはいろうと努めた。しかしそれも同じくできなかった。一定の性癖がついていたので、この世では余儀ない平凡な人々や言葉に接する習慣を失っていた。彼女はそれらを笑うべきものだと思った。そういう不幸な経験から、まさしく恋愛ばかりがりっぱなものだと信じたがって、二人きりの孤独な生活にまたはいり込んだ。そして実際しばらくの間は、彼女は以前にもまして愛に駆られてるように見えた。しかしそれは、そうありたいと願ってるからであった。
 オリヴィエは彼女ほど熱情的でなくしかもやさしみの情はいっそう多かったので、それらの不安を感ずることは少なかった。自分では、漠然とした間歇《かんけつ》的なおののきを感ずるばかりだった。そのうえ、日々の仕事や好ましくない職業などの煩いのた
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