てるとは思わないかどうか、音楽は終極に達してるとは思わないかどうか、その他種々。クリストフとオリヴィエはそれをいっしょに笑った。しかしクリストフはヒューロン人みたいに粗野でありながら、嘲笑《あざわら》いながら、晩餐《ばんさん》の招待を承諾し始めたのだった。オリヴィエはみずから自分の眼を信じ得なかった。
「君が?」と彼は言った。
「そうさ。」とクリストフは揶揄《やゆ》的な様子で答えた。「美しい婦人を見に行けるのは自分ばかりだと、君は思っているのか。こんどは僕の番だよ。少し楽しみたいんだ。」
「楽しむって、君が!」
実際のことを言えば、クリストフは長い間家に閉じこもって暮らしていたので、にわかに外に出たくてたまらなくなった。それにまた、新しい光栄の気を吸うと無邪気な喜びが感ぜられた。もとより彼はそういう夜会にはひどく退屈を覚え、皆ばかな奴らばかりだと思った。しかし家に帰ってくると、心と反対のことを意地悪くオリヴィエへ語った。そして方々の夜会へ出かけて行ったが、二度と同じ所へは行かなかった。二度の招待を断わるためには、ひどい無遠慮さでおかしな口実をもち出した。オリヴィエはそれに気を悪くした。がクリストフは大笑いをした。彼が客間へ出入りするのは、自分の名声を育てるためではなかった。自分の生活資料を新たに蓄《たくわ》えんがためであった。人間の眼つきや身振りや声音などの収集、すべて芸術家がおりおり自分の絵具板《パレット》を豊富ならしむべき、形と音と色との材料、それを新たに得んがためであった。音楽家は音楽ばかりで養われてるものではない。人間の言葉の抑揚、身振りの律動《リズム》、微笑の諧調《かいちょう》、などはみな音楽家に、仲間の者の交響曲《シンフォニー》以上の音楽を暗示するのである。しかし人の顔貌《がんぼう》や魂のその音楽も客間の中においては、音楽家の音楽と同じく、無味乾燥で変化に乏しいものと言わなければならない。各人が自分の風格をもっていて、その中に凝結している。美しい女の微笑も注意の行き届いた装いの中では、パリーの音楽家の旋律《メロディー》と同じく型にはまったものとなる。男子は女子よりもなおいっそう面白みがない。社交界の萎靡《いび》的影響を受けて、たちまちのうちに精力は鈍くなり、独特な性格は磨滅《まめつ》してゆく。クリストフは芸術家らのうちに、多くの死んだ者や死にかけてる者に出会って驚いた。若い音楽家で、精気と才能とを十分にもちながら、成功のために廃頽《はいたい》して、自分を窒息させる阿諛《あゆ》の香を嗅《か》ぐことばかり考え、享楽し眠ることばかり考えてる者があった。そしてその二十年後の姿は、客間の他の隅《すみ》にいる老大家のうちにちょうど現われていた。その老大家は、煉脂《ねりあぶら》を塗りたて、金持ちで高名で、あらゆる学芸院の会員であり、最高位に上りつめていて、もはや何も恐るべきものも仮借《かしゃく》すべきものもないらしく見えながら、あらゆる人の前に平伏し、世論や権力や新聞雑誌の前にびくびくし、もう自分の考えもあえて口に出さず、そのうえもはや考えることもなく、もはや生存することもなく、自分自身の残骸《ざんがい》をになってる驢馬《ろば》となって公衆の前に身をさらしていた。
それらの芸術家や才士は、過去に大人物であったかもしくは大人物になり得られるはずであったが、その各人の後ろにはかならず女が隠れていて、その女から身を滅ぼされてるのであった。どの女も皆危険だった、愚かな女も愚かでない女も、人を愛する女も我が身を愛する女も。そしてすぐれた女ほどさらに危険だった。すぐれてるだけにますます、間違った愛情を押しかぶせて芸術家を窒息させるのだった。その愛情はひたすら、天才を飼い馴《な》らし、平らにし、枝を切り、削り、香りをつけて、ついには天才を、自分の感受性や小さな虚栄心や平凡さと同程度のものとなし、自分たちの社会の平凡さと同種のものとなしてしまうのだった。
クリストフはそういう社会を通り過ぎただけではあったが、その危険を感ずるくらいには十分よく観察した。一人ならずの女が、彼を自分の客間に独占しようとし、自分一人の用に独占しようとした。そしてクリストフも、何かを匂《にお》わせる微笑の釣針《つりばり》を、少しくわえないでもなかった。もし彼に健全な良識がなかったならば、また彼女らの周囲で近代のキルケーどもからすでに多くの者が変形されてる不安な実例がなかったならば、彼も無事にのがれ得はしなかったろう。だが彼は、のろま男の番人たるそれら美人連の群れを、さらに増加したい心は少しもなかった。彼を追っかけてくる女たちがもっと少なかったら、彼にとって危険はいっそう大きかったろう。けれどもう今では、すべての男女が自分たちのうちに一人の天才がいることをよく承知し
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