ていて、いつもの例によって、その天才を窒息させようとつとめていた。それらの連中の考えはただ一つしかなくて、花を見れば花瓶《かびん》にさしたくなり――小鳥を見れば籠《かご》に入れたくなり――自由な人間を見れば奴僕になしたくなるのである。
クリストフは一時心迷ったが、すぐに気を取り直して、彼らを皆追い払ってしまった。
運命は皮肉なものである。無頓着《むとんじゃく》な者には勝手にその網の目をくぐらせるが、疑い深い者、用心深い者、聡明《そうめい》な者にたいしては、なかなか取り逃がすまいとする。パリーの網の目にかかったのはクリストフではなくて、オリヴィエであった。
彼はクリストフの成功のおかげをこうむっていた。クリストフの名声は彼の上にも反映していた。六年以前からときどき書いていたもののためによりも、クリストフを見出した男として、前よりいっそう世に知られていた。それで、クリストフへ宛《あ》てられた招待の相伴《しょうばん》を受けた。そしてひそかにクリストフを監視するためについて行った。たぶん彼はその監視の務めにあまり気を取られて、自分自身を監視することは怠ってたに違いない。恋愛は通りかかって彼をとらえた。
それは痩《や》せた愛くるしい金髪の娘だった。狭い澄んだ額のまわりに漣《さざなみ》のように揺らいでる細やかな髪の毛、やや重たげな眼瞼《まぶた》の上のすっきりした眉《まゆ》、雁来紅《がんらいこう》の青みをもった眼、小鼻のぴくぴくしてる繊細な鼻、軽く凹《へこ》みを帯びた顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》、気まぐれらしい頤《あご》、隅《すみ》がやや脹《ふく》れてる利発な逸楽的な口、パルメジアニノ式の純潔な小半獣神みたいな微笑、それから長い細《ほっ》そりした首、ほどよく痩せた身体をもっていた。何かある楽しげな気がかりらしい色が浮かんでるその若々しい顔は、眼覚《めざ》めくる春――春の覚醒[#「春の覚醒」に傍点]――の不安な謎《なぞ》に包まれていた。彼女はジャックリーヌ・ランジェーという名だった。
彼女はまだ二十歳になっていなかった。自由な精神をそなえたカトリック教の富裕なりっぱな家庭だった。父親は、発明の才ある怜悧《れいり》なさばけた技師で、新思想を歓迎していた。勤勉と政治的関係と結婚とで財産をこしらえていた。財界におけるパリー風な美しい女との、恋と金との結婚――(彼らにとっては真の恋愛結婚)――をしたのだった。金銭は残っていたが、愛情は飛び去ってしまっていた。それでもなお多少の火花が消えずにいた。なぜならどちらの愛欲もきわめて強烈だったから。しかし彼らは大袈裟《おおげさ》な貞節観念を鼻にかけてるのではなかった。各自に自分の仕事や快楽を追い求めていた。そして、利己的な気ままな抜け目ない好伴侶《こうはんりょ》として、よく気が合っていた。
彼らの娘は、二人の間の連繋《れんけい》であるとともに、暗黙な競争の種となった。二人とも娘を嫉妬《しっと》深いほど愛していた。どちらも娘のうちに、好ましい欠点をそなえてる自分の姿を見出し、その欠点は娘の優美のために理想化されて眼に映った。そしてたがいに娘を奪い取ろうと内々努力した。娘のほうでは、全世界が自分のまわりに引きつけられてると信じがちな子供特有のずるい無邪気さをもって、そのことを感ぜずにはいなかった。そしてそれにつけ込んだ。両親の間にたえず愛情のせり上げを起こさした。どんなわがままでも、一方から拒まれるときっと他方から承知された。すると一方は先を越されたことに困って、他方が与えた以上のものをすぐに与えるのだった。かくて娘はひどく甘やかされた。ただ仕合わせなことには、彼女は性質中に何にも悪いものをもってはいなかった――利己心を除いては。ただしこの利己心は、すべての子供にほとんど共通なものではあるが、あまりに大事にされる金持ちの子供にあっては、障害のないことからくる病的な形をとるものである。
ランジェー夫妻は、娘を鍾愛《しょうあい》しながらも、自分一身の安逸を少しも犠牲にしたがらなかった。一日の大半は娘を一人放っておいた。それで娘は、夢想する時間に少しも不足を覚えなかった。彼女は早熟であるうえに、自分の前でされる不謹慎な話――(人々は彼女に少しも遠慮をしなかった)――からすぐに啓発されて、六歳になったときにはもう、夫や妻や情人を人物とするちょっとした恋物語を、人形に話してきかせるようになった。もとより彼女のほうに悪心は少しもなかった。けれどそれらの言葉の下にある感情の影をちらと見た目から、人形へ話すのはふっつりよしてしまって、その詩を自分自身だけのものとした。彼女のうちには無邪気な情欲の素質があって、それが地平線の彼方《かなた》はるかな眼に見えない鐘のように、遠くで鳴り響いていた
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