もどり来るおりの、美《うる》わしい夕《ゆうべ》の夢想。風は灌木《かんぼく》の枝をそよがしている。湖水のように澄み渡った空には、銀色の月の仄《ほの》白い微光が漂っている。星が一つ流れて消える――心へ伝わるかすかなおののき――音もなく滅びる一つの世界。街道には二人のそばを、足を早めた無言の人影がまれに通り過ぎる。町の鐘は翌日の祭りを告げて鳴る。二人はちょっと歩みを止める。彼女は彼に身を寄せる。二人は言葉もなくたたずむ……。ああ、この瞬間のように、人生がこのままじっとしているならば!……彼女は溜息《ためいき》をもらして言う。
「なぜ私はこんなにあなたが恋しいのでしょう?……」

 彼らはイタリーへ数週間旅をした後、オリヴィエが教師に任命されたフランス西部の町に、身を落ち着けたのだった。彼らはほとんどだれにも会わなかった。何事にも興味を覚えなかった。やむを得ず訪問する場合には、その厭《いや》な冷淡さが無遠慮に現われたので、人々は気持を害したりあるいは苦笑をもらしたりした。どんな言葉も二人の上をすべり落ちてその心まで達しなかった。二人は若夫婦特有の横柄なしかつめらしさをそなえていて、人に向かってこう言うかのようだった。
「君たちには、何にもわからないのだ……。」
 ジャックリーヌのやや不機嫌《ふきげん》そうな専心的なきれいな顔の上に、またオリヴィエの楽しげなぼんやりしてる眼の中に、つぎの思いが読み取られるのだった。
「僕らがいかに君たちをうるさがってるか、少しは察してくれてもよさそうなものだ……。いつになったら僕らは二人きりになれることかしら?」
 彼らは人中にいるときでさえ、無遠慮に二人きりの心持を様子に示した。他人との会話をそちのけにして二人の眼つきが話を交えてるのが、傍《かたわ》らから見てとられた。彼らはたがいに顔をながめなくとも、たがいに見てとることができた。そして彼らは微笑《ほほえ》んでいた。二人とも同時に同じことを考えてるとわかっていたのである。社交的な多少の束縛を脱して、ほんとに二人きりになるときには、喜びの叫びを発して、子供らしい馬鹿げたことをしつくした。あたかも七、八歳の子供のようだった。ばかばかしい口のきき方をした。おかしな愛称で呼び合った。彼女は彼のことを、オリーヴ、オリヴェー、オリファン、ファニー、マミー、ミーム、ミノー、キノー、カウニッツ、コジーマ、コブール、パノー、ナコー、ポネット、ナケー、カノー、などと呼んだ。そして自分は小娘のようなふうをした。しかし彼女は彼にたいして、母親や姉妹や妻や恋人や情婦など、あらゆる愛情を一つにした者でありたがっていた。
 彼女は彼の楽しみを分かちもつだけでは満足しなかった。かねて考えていたとおり、彼の仕事にもいっしよに加わった。それもまた一つの遊びであった。初めのうち彼女は、仕事を珍しがってる細君に通有な、興味深い熱心さを示した。図書館へ行って書き写してくることだの、面白くもない書物を翻訳することなど、きわめてつまらない仕事にも、楽しみを見出してるかのようだった。それは彼女の生活の予定の一部分だった。ごく純潔なごく真面目《まじめ》な生活、高尚な思想と共同の勉励とにささげつくした生活、それを彼女は営むつもりだった。そして、恋愛が二人を輝かしてる間はそれも結構だった。なぜなら彼女は、彼のことばかり考えていて、自分が何をしてるかは考えていなかったから。もっとも奇態なことには、そういうふうにして彼女がなすことはことごとくうまくいった。他のときだったら理解しがたいような抽象的な書物を読んでも、彼女の精神はなんらの努力もなしに働いた。彼女の一身は恋愛のために地上からもち上げられてるかのようだった。彼女はそれを自分では気づかなかった。屋根の上を歩く夢遊病者のように、自分の真面目《まじめ》な楽しい夢を、傍目《わきめ》もふらずに平然と追っかけていた……。
 やがて彼女は、その屋根に気づき始めた。それでも少しも不安を覚えなかった。でも屋根の上で何をしていたかをみずから怪しんで、家の中にはいった。すると仕事が厭《いや》になった。仕事のために愛が邪魔されてると思い込んだ。もちろんそれは彼女の愛がすでに弱ってきたからのことである。しかしそんな様子は少しも見えなかった。彼らはもう一瞬間も離れてることができなかった。世間との交渉を断ち、家の扉《とびら》を閉ざし、いかなる招待をも承諾しなかった。他人の愛情にも、自分らの仕事にも、たがいの愛から気をそらさせるすべてのことに、嫉妬《しっと》の念を覚えた。クリストフとの通信も間が遠くなった。ジャックリーヌはクリストフを好んでいなかった。彼女にとって彼は一つの敵であって、彼女があずかり知らぬオリヴィエの過去の一部を代表していた。そして彼がオリヴィエの生活のうちに場所を
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