るばかりでは満足しなかった。彼はオリヴィエに向かって、文学にそれを適用せよと勧めた。
「現代の作家らは、」と彼は言った、「稀有《けう》なる人事や、もしくは、活動的な健全な人々の大社会の周辺にある、異常な一団の中にしかいない人物をばかり、描写しようと骨折っている。そういうふうに彼らはみずから人生の外に出ているので、彼らを打ち捨てて人々のいる所に行きたまえ。日々に見られる人々へ、日々に見られる生活を示したまえ。その生活こそ、海よりもより深くより広いのだ。われわれのうちのもっとも微賤《びせん》な者といえども、内に無限なるものをになっているのだ。人間たるの単純さをもってるあらゆる者のうちに、恋人のうちに、友のうちに、分娩《ぶんべん》の日の輝かしい光栄を苦痛で購《あがな》う女のうちに、人知れず身を犠牲にしてだれからも知られていない者のうちに、無限なるものがある。甲より乙へ乙より甲へと流れる、生命の波がある……。それら単純な人々の一人の単純な生活を書きたまえ。世界の第一日以来、みな同じようでしかも異なっており、みな同じ母の息子《むすこ》である、相ついで来る日々の、平穏な叙事詩を書きたまえ。それを単純に書きたまえ。現代の芸術家らの力を疲憊《ひはい》さしてる、繊細な技巧などに気をもまないようにしたまえ。君は万人に話しかけるのだ。万人の言葉を用いたまえ。言葉には高尚も下等もないのだ。言うべきことを正確に言ってるか言っていないかがあるばかりだ。君が作るあらゆるものに君の全部をこめたまえ。自分の考えてることを考え、自分の感じてることを感じたまえ。君の心の律動《リズム》が君の書くものを奪い取るようにしたまえ。文体とは魂にほかならないのだ。」
 オリヴィエはクリストフの説を承認した。しかし多少皮肉な答えをした。
「そういう作品はなるほどりっぱなものではあろう。しかしそれは、それを読み分け得る人々のもとまでは達しないだろう。途中で批評界のために窒息させられるかもしれない。」
「それこそフランスのつまらない市井的な考えだ。」とクリストフは答え返した。「自分の書物について批評界がどう考えるか、そんなことを気に病むのか!……君、批評家というものは、勝利か敗北かを書き止めるために存在してるばかりなんだ。ただ勝利者になりたまえ……。僕は批評家などはなしで済ませる。君も批評家なしに済ませる道を学びたまえ……。」

 しかしオリヴィエは、なおその他のものがなくてもやってゆける道を覚えていた。芸術もクリストフもなくて構わなかった。そのころ彼はもうジャックリーヌのことしか考えていなかった。

 彼らの恋愛の利己主義は、彼らのまわりに空虚をこしらえ出していた。そして浅慮にも、将来の源泉をすべて焼きつくしていた。

 交じり合った二人の者がたがいに相手を吸い取ろうとばかり考えてる、初めの間の陶酔……。身体と魂とのあらゆる部分で、彼らは触れ合い、味わい合い、たがいにはいり込もうとする。彼らは二人だけで、法則のない一つの世界をなし、恋に駆られた一つの渾沌《こんとん》界をなしている。そこでは混同し合った各要素が、たがいに見分けることをまだ知らず、たがいに争ってむさぼり食う。二人はたがいに相手のうちにあるすべてのものを歓び合う。相手もまた自分自身なのである。世界も今は何になろう? なごやかな逸楽の夢に眠ってる古《いにしえ》のアンドロジーヌのように、彼らの眼は世界に向かって閉じている。世界はすべて二人のうちにあるのである。
 一様な夢の織り物をこしらえ出す昼と夜、美《うる》わしい白雲が、眩惑《げんわく》せる人の眼にただ輝ける跡をのみ残して空を過《よぎ》ってゆくように、流れ去る時間、春の懶《ものう》さで人を包む、なま温かい息吹《いぶ》き、肉体の金色の熱、日に照らされた愛の葡萄棚《ぶどうだな》、清浄な無羞恥《むしゅうち》、狂おしい抱擁、溜息《ためいき》や笑い、楽しい涙、おうそれら幸福の埃《ほこり》よ、汝から何が残るか? 汝は人の心にほとんど思い出の跡をもとどめない。なぜなら、汝がありし時には時間が存在していなかったのだから。
 まったく同じような日々……。静かな曙《あけぼの》……。眠りの淵《ふち》から、からみ合った二つの身体が同時に浮かび出る。息を交えて微笑《ほほえ》める顔が、いっしょに眼を開き、たがいに見合わし、たがいに接吻《せっぷん》し合う……。朝の時刻の若々しい爽《さわや》かさ、燃ゆる身体の熱を鎮《しず》める新鮮な空気……。夜の快楽がその奥に響きをたててる、つきせぬ日々の快い夢心地……。夏の午後、畑の中で、天鵞絨《ビロード》のごとき牧場の上で、長い白楊樹《はくようじゅ》のさらさらと鳴る下で、うっとりとふける夢想……。腕と手とを組み合わせ、輝ける空の下を、愛の臥床《ふしど》へ連れだって
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