も、芸術のうちに表白してる宗教的信念によって他人と結合していた。ヘンデルやモーツァルトは、自然の勢いによって、自分のためにではなく公衆のために書いていた。ベートーヴェンでさえも、群衆を相手にせざるを得なかった。それは仕合わせなことである。人類はときどき天才に向かって言ってやるがよい。
「汝《なんじ》の芸術のうちには、俺《おれ》のためのものは何があるか。もし何もないとすれば、消え失《う》せてしまえ!」
 そういう拘束に会って天才は第一に利するところがある。もちろん、自己をしか表現しない大芸術家もいる。しかしもっとも偉大なのは、万人のために鼓動する心をもった人々である、生きたる神を面と向かって見ようと欲する者は、自分の思想の空虚な蒼空《あおぞら》のうちにではなしに、人間にたいする愛のうちに、それを捜し求むべきである。
 当時の芸術家らは、そういう愛から遠く離れていた。彼らが物を書く対象は、自惚《うぬぼ》れが強く無政府主義的で社会生活から根こぎにされたいわゆる優秀者どもであり、自分以外の人間の熱情を分有しないことを光栄と心得、またはそれをもてあそんでる、いわゆる優秀者どもであった。他人に似ないために人生から絶縁することは、なるほどりっぱな光栄かもしれない。いっそのこと死んでしまったがいいだろう! しかしわれわれは、生者のほうへおもむき、大地の乳房《ちぶさ》を、わが民族のうちのもっとも神聖なものを、家庭と土地とにたいする愛を、吸おうではないか。もっとも自由なる時代にあって、イタリー文芸復興の年若な主将ラファエロは、チベール彼岸のマドンナらのうちに母性を光栄あらしめていた。しかるに今日たれかわれわれに、一つの椅子に[#「椅子に」に傍点]凭《よ》れるマドンナ[#「れるマドンナ」に傍点]を音楽で与えてくれる者があるか。生活のあらゆる時間のために音楽を与えてくれる者があるか。君たちは何ももっていない、フランスにおいて何ももっていない。自分の民衆に歌を与えんと欲するときに、君たちはドイツの過去の大家らの音楽を剽窃《ひょうせつ》しなければならないではないか。君たちの芸術は根底より頂上まで、すべてをこしらえるかこしらえ直すかしなければならないのだ……。
 クリストフは、当時地方の町に居を定めてるオリヴィエと通信していた。先ごろのあの豊富な合作を手紙でやりつづけようとつとめていた。昔のドイツの古い歌曲《リード》の実質となってるもののような、日々の思想や行為に関連する美しい詩的な原文を、彼はオリヴィエから得たがっていた。聖書の短い断片やインドの詩、宗教的なあるいは道徳的な叙情小曲、自然のちょっとした画幅、恋愛的なあるいは家庭的な情緒など、単純健全な心の人たちのための朝や夕や夜の詩を求めていた。一つの歌曲《リード》には四行から六行くらいの詩句で十分である。もっとも単純な表現でよろしい。巧妙な展聞も精緻《せいち》な和声《ハーモニー》もいらない。君たち耽美《たんび》家の熟達せる技能が何になろう? 君たちは僕の生を愛してほしい。僕を助けて僕の生を愛させてほしい。フランスの日常[#「フランスの日常」に傍点]を、僕の非凡な時[#「非凡な時」に傍点]や平凡な時[#「平凡な時」に傍点]を、僕のために書いてくれたまえ。そして、もっとも明快な旋律的楽句を求めようではないか。現代の多くの音楽家の音楽に見るような、一階級だけの方言にすぎないその芸術的な言葉を、極端に避けようではないか。「芸術家」としてではなく、人間として話すだけの勇気をもたなければいけない。僕たちの父祖がなしたところを見たまえ。万人の用いる音楽的形式への復帰から、十八世紀末の古典派の芸術は生まれてきたのだ。グルックや交響曲《シンフォニー》の創造者たちや歌曲《リード》の大家たちなどの旋律的楽句は、ヨハン・セバスチアン・バッハやラモーなどの精緻なあるいは巧妙な楽句に比べると、時として平凡な市井的なものと思われることがある。けれどそういう地質こそ、偉大なる古典派らの味わいや広い名声を作り出したのだ。もっとも単純な音楽形式から、歌曲《リード》から、歌芝居《ジンクシュピール》から、彼らは出発したのだ。それら日常生活の小さな花が、モーツァルトやウェーバーなどの連中の幼年時代にしみ込んだのだ。――君たちも同様にしたまえ。すべての人のための歌を書きたまえ。そうした上で、交響曲《シンフォニー》を築き上げるがいい。一足飛びにやったって何になろう? ピラミッドは頂から作り始めるものではない。君たちの現今の交響曲《シンフォニー》は、胴体のない頭ばかりである。おう才人たちよ、一身を具現したまえ。民衆と親和する音楽家らの気長い世代が必要なのだ。一つの音楽芸術は一日にして建設されるものではない。
 クリストフは、そういう理論を音楽に通用す
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