占むれば占むるほど、ますます彼女は本能的にオリヴィエの生活を彼から奪い取ろうとした。自分のためにする下心からではなかったが、ひそかにオリヴィエを友から引き放そうとした。クリストフの態度や顔つきや手紙の書き方や芸術上の抱負などを冷笑した。それにはなんらの悪意もまた策略さえもなかった。善良な性質からそんなことをするのだった。オリヴィエは彼女の批評を面白がった。そこに少しも悪意を認めなかった。そして自分はやはり同じようにクリストフを愛してると思っていた。しかし彼が愛してるのはもうクリストフの一身をだけだった。それは友情においては些々《ささ》たることにすぎない。彼はしだいにクリストフを理解しなくなってきたことや、二人を結びつけていたクリストフの思想や勇壮な理想主義に興味を失ってきたことには、みずから気がつかなかった……。恋愛は若い心にとってはあまりに強い楽しみである。他のいかなる信仰が恋愛と両立し得るだろうか? 愛する者の身体とその神聖な肉から摘み取られる魂とだけが、知識の全部であり信仰の全部である。他人が大事にしてるものも、また自分が昔大事にしていたものも、いかに憐《あわ》れみの微笑でながめられることであろう! 力強い人生とその苛辣《からつ》な努力とについても、もはや眼にはいるものは、不滅らしく思える一時の花ばかりである……。恋愛はオリヴィエを奪い取っていた。初めのうちは彼の幸福もなお、優雅な詩になって現われるだけの力をもっていた。がやがて彼には、それさえもつまらぬことのように思えてきた。恋愛からそれだけの時間を取り去ることにすぎなかった。そしてジャックリーヌも彼と同じく一生懸命になって、他のあらゆる生存の理由を破壊せんとし、愛の葛《かずら》を支持し生かしてる生の樹木を枯らさんとしていた。かくて彼らは二人とも幸福のうちに身を滅ぼしていった。
悲しくも、人はたちまちにして幸福に馴《な》れ親しむ。利己的な幸福が生の唯一の目的となるときには、生はただちに目的なきものとなる。幸福は一つの習慣となり、一つの中毒となって、人はもはやそれがなくては済まされなくなる。しかもそれがなくても済ませることが必要なのだ……。幸福は世界の律動《リズム》の一瞬間であり、生の振子が往来する両極の一つである。その振子を止めんとするには、それを破壊しなければならないだろう……。
二人は「感受性を狂暴ならしむる安逸の[#「感受性を狂暴ならしむる安逸の」に傍点]倦怠《けんたい》」を知った。楽しい時期は、歩みをゆるめ、勢い衰え、水なき花のようにしおれていった。空はやはり同様に青かったが、もはや朝の軽やかな空気はなかった。すべては小揺るぎもせず、自然は黙していた。彼らは願っていたとおり二人きりだった。――そして二人の心は切なかった。
言い知れぬ空虚の感じが、楽しくなくもない漠然《ばくぜん》たる倦怠が、彼らに姿を見せてきた。彼らはそれがなんであるかを知らなかった。ただなんとなく不安だった。彼らは病的なほど感じやすくなった。沈黙をじっと聞き澄ましてる彼らの神経は、人生の些細《ささい》な不意の出来事にぶつかっても、木の葉のようにうち震えた。ジャックリーヌは理由もなしに涙を流した。涙の原因は愛であると信じたかったけれども、もうそればかりではなかった。結婚前の熱烈な苦しい年月を経て後、目的を達して――達してそして通り越して――突然あらゆる努力をやめ、あらゆる新しい行ないが――そしておそらくあらゆる過去の行ないが――にわかに無用に帰したので、彼女は自分でも訳のわからない惑乱に陥って、圧倒されてしまったのだった。彼女はそうだとは認めないで、神経の疲れのせいだとして、一笑に付し去ろうと思った。しかしその冷笑は涙と同様に不安なものだった。彼女は健気《けなげ》にもまた仕事にかかろうと努めた。けれど手をつけるや否や、そんなばかげた仕事に以前どうして興味をもち得たか、もうわからなくなった。厭《いや》になって仕事を放り出した。彼女は社交的関係にふたたびはいろうと努めた。しかしそれも同じくできなかった。一定の性癖がついていたので、この世では余儀ない平凡な人々や言葉に接する習慣を失っていた。彼女はそれらを笑うべきものだと思った。そういう不幸な経験から、まさしく恋愛ばかりがりっぱなものだと信じたがって、二人きりの孤独な生活にまたはいり込んだ。そして実際しばらくの間は、彼女は以前にもまして愛に駆られてるように見えた。しかしそれは、そうありたいと願ってるからであった。
オリヴィエは彼女ほど熱情的でなくしかもやさしみの情はいっそう多かったので、それらの不安を感ずることは少なかった。自分では、漠然とした間歇《かんけつ》的なおののきを感ずるばかりだった。そのうえ、日々の仕事や好ましくない職業などの煩いのた
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