たとい臆病さからでも、言い換えれば心ならずにでも、黙り込む人に出会うと、うれしいものです。」
クリストフは自分の皮肉を面白がって笑っていた。
「では、私が無口だから訪《たず》ねて来てくだすったのですか。」
「ええ、君が無口だから、君が沈黙の徳をそなえてるからです。沈黙にもいろんな種類があるが、僕は君の沈黙がすきです。それだけのことです。」
「どうしてあなたは私に同情を寄せられるのですか。ろくにお会いしたこともないのに。」
「それは僕のやり口です。僕は人を選ぶのにぐずついてはしない。気に入った人にこの世で出会うと、すぐに決心して追っかけていって、いっしょにならなきゃ承知しないんです。」
「追っかけていって思い違いだったことはありませんか。」
「幾度もありますよ。」
「こんども思い違いではありませんでしょうか。」
「それはじきにわかることです。」
「ああそうだったら、私はどうしましょう。ほんとに私はぞっとします。あなたから観察されてると思うだけで、私はもう何もできなくなります。」
クリストフはやさしい好奇心の念で、その感銘深い顔をながめた。それはたえず赤くなったり蒼《あお》くなったりしていた。種々の感情が水の上をかすめる雲のように去来していた。
「なんという神経質なかわいい男だろう!」と彼は考えた。「まるで女のようだ。」
彼はやさしくその膝《ひざ》に手をやった。
「ねえ、」と彼は言った、「僕が警戒しながらやって来たのだと君は思ってるのですか。友人を相手に心理研究をやるような奴を、僕は大嫌《だいきら》いです。たがいに自由で誠実であって、腹蔵なく、うわべをつくろう恥じらいもなく、いつまでもうち解けないという懸念もなく、たがいに言い逆らうことを恐れもしないで、感じたことをすべてうち明け合うという権利――一瞬間後にはもう愛さなくなっても構わないが、ただ現在は愛してるという権利、それだけが僕の求めるものです。そうしたほうが、いっそう男らしくりっぱではないですか。」
オリヴィエは真実な様子で彼の顔をながめて答えた。
「それはそうに違いありません。そのほうが男らしいです。そしてあなたは強者です。しかし私は、なかなかそうはいきません。」
「いや僕は君を強者だと思ってるんです。」とクリストフは答えた。「ただ違った意味でです。それにまた、もしよかったら僕は君を助けて強者にしたいために、やって来たんです。というのは、先刻《さっき》あれまで言ったからつけ加えて言うんですが、そうでなけりゃこれまで打ち解けて言えはしないが、僕は――将来はとにかく現在では――君を愛してるんです。」
オリヴィエは耳までも赤くなった。きまり悪くてじっとしながら、なんと答えていいかわからなかった。
クリストフは周囲を見回した。
「ひどい住居ですね。他に室はないんですか。」
「物置みたいなのが一つあるきりです。」
「ああ、息もできない。よくこんな所に住んでいられたものですね。」
「馴《な》れてくるんです。」
「僕ならどうしたって馴れやしない。」
クリストフは胴衣《チョッキ》の胸を開いて、強く息をした。
オリヴィエは窓のところへ行って、すっかり開け放った。
「クラフトさん、あなたは都会にいてはいつも不快に違いありません。が私には、自分の元気を苦しむという憂いはありません。どこへ行っても生きられるほど息が小さいんです。それでもさすがに、夏の夜は苦しいことがあります。夏の夜が来るのを見るとびくびくします。いよいよその時になると、寝台の上にすわっていますが、まるで窒息でもしそうな気がするんです。」
クリストフは、寝台の上につみ重なってる枕《まくら》や、オリヴィエの疲れた顔をながめた。暗闇《くらやみ》の中でもがいてるその姿が眼の前に浮かんだ。
「こんな所は出ちまったがいいでしょう。」と彼は言った。「どうしていつまでもいるんです?」
オリヴィエは肩をそびやかして、平気な調子で答えた。
「どうせ、どこへ行ったって同じです。」
重い靴音《くつおと》が天井の上を歩いていた。階下には金切声が言い争っていた。そしてたえず四方の壁は、街路を通る乗合馬車の響きに揺れていた。
「そしてこれはまたひどい家だ!」とクリストフは言いつづけた。「きたなくて、むれ返って、ひどく貧乏くさい。どうして毎晩こんな家へ帰って来られるんです? がっかりしやしないですか。僕だったらとても生きちゃいられない。橋の下にでも寝たほうがましだ。」
「私も初めのうちは苦しかったんです。あなたと同じように厭《いや》な気がしました。子供の時分には、散歩に連れ出されて、人がうようよしてるきたない町を通ったばかりでも、胸がつまるような気がしました。口に言えない変な恐ろしさに襲われました。今もし地震でもあったら、死んだままここにいつまでも放っておかれるだろう、などと考えました。そして、それが世にもっとも恐ろしい不幸のように思えたものです。そんな所へみずから好んで住まうとは、そしてたぶんそんな所で死ぬだろうとは、当時夢にも思ってはいませんでした。しかしそう気むずかしいことばかりも言っていられなくなったのです。やはり今でも厭ではありますが、もうそんなことは考えないようにしています。階段を上がってくるときには、眼も耳も鼻も、あらゆる官能をふさいでしまって、自分のうちに潜み込んでしまうんです。それから向こうに、御覧なさい、あの屋根の上に、アカシアの木の枝が見えています。そのほかのものは何にも眼にはいらないように、私はこの隅《すみ》にすわり込みます。夕方、風があの枝を揺するときには、パリーから遠く離れてる気がします。ときおりあの歯形の木の葉がさらさらとそよいでるのを見ると、大きな森が波打ってる景色にもまして、私には楽しく思えます。」
「そうだ、僕の思ったとおりだ、」とクリストフは言った、「君はいつも夢ばかりみてるんですね。しかし悲しいことには、生活の意地悪さと闘《たたか》ってるうちに、他の生活を創造するのに役だつはずの幻想の力は、しだいに磨《す》り減らされてゆくでしょう。」
「それがたいていの人の運命ではないでしょうか。あなた自身でも、憤りや闘いのうちに自分を無駄に費やしてはいませんか。」
「僕のは違う。僕はそのために生まれた人間だ。この腕や手を見たらわかるでしょう。奮闘するのが僕の健全な生活です。しかし君は、十分の力をもっていない。そんなことはよくわかってる。」
オリヴィエは自分の痩《や》せた拳《こぶし》を悲しげにながめて言った。
「ええ、私は弱いんです。いつもこんなでした。しかししかたありません。生活しなければならないんです。」
「どうして生活してるんです?」
「出稽古《でげいこ》をしています。」
「なんの?」
「なんでもです。ラテン語やギリシャ語や歴史の復習をしてやり、大学入学受験者の準備をしてやり、また市立のある学校で道徳の講義をしています。」
「なんの講義?」
「道徳です。」
「なんて馬鹿なことだろう。君たちの学校じゃ道徳を教えるんですか。」
オリヴィエは微笑《ほほえ》んだ。
「もちろんです。」
「そして十分間以上も話すだけの種がありますか。」
「一週に十二時間の講義を受け持っています。」
「では悪を行なうことでも教えるんですか。」
「なぜです?」
「善とはなんであるかを知らせるためには、そんなにしゃべる必要はない。」
「というより、知らせないためには、でしょう。」
「なるほど、知らせないためには。そして、知らなくとも善を行なうに少しもさしつかえはない。善は学問ではなくて、行為だ。道徳を喋々《ちょうちょう》するのは、神経衰弱者ばかりだ。そして道徳のあらゆる条件中第一のものは、神経衰弱でないということだ。世間の衒学《げんがく》者どもは、言わば自分は足がたたないくせに人に歩くことを教えようとしている。」
「その連中は何もあなたのために語ってるのではありません。あなたは道徳を御存じですが、世には知らない者がたくさんあります。」
「そんなら、子供のように、自分で覚えるまで四足で匐《は》わせとけばいいんだ。しかし、二本の足でやろうと四足でやろうと、とにかく第一のことは、歩くということだ。」
彼はその四、五歩にも足らない狭い室を隅《すみ》から隅へ大股《おおまた》に歩いた。そしてピアノの前に立ち止まり、蓋《ふた》を開き、楽譜を繰り広げ、鍵盤《けんばん》に手を触れて、言った。
「何かひいてくれませんか。」
オリヴィエは飛び上がった。
「私が!」と彼は言った。「とんでもないことです!」
「ルーサン夫人の言葉によると、君はりっぱな音楽家だそうです。ねえ、ひいてくれたまえ。」
「あなたの前で?」と彼は言った。「それこそ寿命が縮まってしまいます。」
その心から出た率直な叫び声に、クリストフは笑い出し、オリヴィエ自身も多少当惑しながら笑った。
「いったいそんなことが、」とクリストフは言った、「フランス人にとっちゃ口実となるんですか。」
オリヴィエはなお拒みつづけた。
「でもなぜです? なぜ私にひかせようとなさるんです?」
「それはあとで言うから、ひいてくれたまえ。」
「何をひくんですか。」
「なんでも君の好きなものを。」
オリヴィエは溜息《ためいき》をもらし、ピアノのところへ行ってすわり、自分を選んだ一徹な友の意志に服従して、しばらくぐずついたあとに、モーツァルトの美しいロ短調アダジオ[#「ロ短調アダジオ」に傍点]をひき始めた。初めのうちは、指が震えて鍵《キー》を打つ力もなかった。それからしだいに元気が出て来た。モーツァルトの言葉を繰り返してるだけだと思いながら、知らず知らず自分の心を吐露していた。音楽は慎みのない腹心者である。もっともひそかな思想をも吐露してしまう。モーツァルトの緩徐曲[#「緩徐曲」に傍点]の霊妙な作意の下から、クリストフはモーツァルトのではなく、それをひいてる新しい友の、眼に見えぬ特質を見てとった、神経質な純潔な情け深い恥ずかしがりのこの青年の、憂鬱《ゆううつ》な静穏さを、内気なやさしい微笑を。しかし、その曲の終わりに近づいて、切ない恋の楽句が高まって砕ける頂点に達すると、オリヴィエは堪えがたい羞恥《しゅうち》を感じてひきつづけられなくなった。指がきかず音が不足した。彼はピアノから手を離して言った。
「もうひけません……。」
後ろに立っていたクリストフは、彼のほうへかがみ込んで両腕を貸してやり、中断した楽句をひき終えた。それから言った。
「これで君の魂の音色がわかった。」
彼はオリヴィエの両手をとり、その顔をまともにしばらくながめた。そしてやがて言った。
「不思議だなあ!……君には以前会ったことがある……僕はずっと前から君をよく知っていた!」
オリヴィエの唇《くちびる》は震えた。彼はまさに話し出そうとした。しかし口をつぐんだ。
クリストフはなおちょっと彼を見守った。それから黙って微笑《ほほえ》みかけた。そして帰っていった。
彼は輝かしい心で階段を降りていった。二人のごくきたない小僧が、一人はパンをもち一人は油|壜《びん》をもって上がってくるのにすれ違った。彼はその二人の頬辺《ほっぺた》を馴《な》れ馴れしくつねってやった。顔渋めてる門番に微笑みかけた。街路に出ると、小声で歌いながら歩いた。リュクサンブールの園へはいった。木陰のベンチに身を横たえて眼をつむった。空気は静まり返っていた。散歩の人もあまりなかった。噴水の不同な響きや、ときどき砂の上の足音などが、ごく弱く聞こえていた。クリストフは堪えがたい懶《ものう》さを感じて、日向《ひなた》の蜥蜴《とかげ》みたいにうっとりとしていた。木影はもうとくに彼の顔から離れていた。しかし彼は思い切って身を動かしかねた。種々の考えがぐるぐる回っていた。が彼はそれを一つ所に定めようとしなかった。どの考えも皆楽しい光のうちに浸っていた。リュクサンブールの大時計が鳴った。彼はそれに耳を貸さなかった。がすぐそのあとで、十二時を打ったのだという気がした。彼は飛び上がった。
前へ
次へ
全34ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング