ジャン・クリストフ
JEAN−CHRISTOPHE
第七巻 家の中
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)軽蔑《けいべつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)油|壜《びん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]
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序
ジャン・クリストフの友人らへ
私は数年来、既知あるいは未知の離れてる友人らと、いつも心のうちで話をしてきたが、今日では声高に話す必要を感ずる。それにまた、彼らに負うところを感謝しなければ、私は忘恩者となるかもしれない。ジャン・クリストフのこの長い物語を書き始めてより、私は彼らとともに、彼らのために、書いてきたのである。彼らは私を励まし、忍耐して私のあとについて来、その同情で私を元気づけてくれた。もし私が、彼らに多少の善をなし得たとしても、彼らはさらに多くの善を私になしてくれた。私のこの作品は、われわれの思想を結合した果実である。
私はこの作品に着手したとき、少数の友をしか期待し得なかった。私の望みはソクラテスの家の程度にとどまっていた。しかし年を経るに従って私はますます、同じものを愛し同じものを苦しむことにおいて、パリーと地方とを問わず、フランスとフランス以外とを問わず、いかに多くの同胞があるかを感じた。広場の市[#「広場の市」に傍点]にたいする軽蔑《けいべつ》を語ることによって、クリストフが自分の本心を――ならびに私の本心を――吐露するところの、この前の一巻が出たおりに、私はその証拠を得たのであった。私のいかなる著書も、これほど直接の反響を呼び起こしたものはなかった。実際のところ、それはただに私の声だったばかりではなく、また私の友人らの声だったからである。クリストフは私のものであると同様にまた彼らのものであることを、彼らはよく知っている。われわれはクリストフのうちに、われわれに共通な魂を多分に投げ込んでおいたのである。
クリストフは彼らのものであるがゆえに、私は今日提供するこの一巻について多少の説明を読者にしておかなければならない。広場の市[#「広場の市」に傍点]におけると同じく、この一巻のうちにも彼らは小説的波乱を見出さないだろうし、あたかもここで主人公の生活は中止されたかの観がある。
私はここに、いかなる情況のうちに私がこの全部の著作に取りかかったかを、陳述しなければならない。
私は孤立していた。フランスにおける多くの人々と同様に、私は害悪な精神界に窒息しかけていた。私は呼吸したかった。不健全な文明にたいして、偽りの選良者らから腐敗されてる思想にたいして、反抗して起《た》ちたかった。その選良者らに言ってやりたかった、「君らは嘘《うそ》を言ってる、君らはフランスを代表してはいない。」
それには、純潔な眼と心とをもち、発言の権利を得るだけの十分高い魂をもち、人に耳を傾けしむるに足りる十分強い声をもってる、一つの主人公が、私に必要であった。私は気長にそういう主人公を築き上げた。意を決してこの著述に筆を染むる前、私は主人公を十年間も自分のうちに担《にな》っていた。クリストフがいよいよ発足したのは、私がすでに最後まで彼の道程を見きわめたときにであった。そして、広場の市[#「広場の市」に傍点]のある部分や、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]の終わりのある部分(ことに燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]の中のアンナの章)などは、曙[#「曙」に傍点]よりも前に、あるいは同時に、書かれていた。クリストフやオリヴィエのうちに反映するフランスの映像は、最初よりして、本書のうちに一定の場所を占めていた。それゆえに、これをもって著作の脱線だと見なしてはいけない。これは道中予定の佇止《ちょし》であって、過ぎ来し谷間をふり返り見、行く手の遠い地平線をうちながむべき、人生の大なる覧台《テラース》の一つである。
言うまでもなく私は、これら最近の巻(広場の市[#「広場の市」に傍点]と家の中[#「家の中」に傍点])において、もとよりその後の部分においても同様であるが、一つの小説を書くという志望は少しもなかった。それではこの作品はいったいなんであるか? 詩であるのか?――いや名前の必要がどこにあろう。一人の人間を見て、それは小説か詩かと尋ねる者が世にあろうか。私が創造したのは一個の人間である。一個の人間の生活は、文学上のある形式の中にはめ込まれ得るものではない。その法則は生活自身のうちにある。そして各生活はそれぞれ自己の法則をそなえている。その掟《おきて》は自然の力の掟と同じである。人間の生活には、静かな湖水のごときもあり、雲の流るる明るい大空のごときもあり、豊饒《ほうじょう》な平野のごときもあり、切り立った山嶺《さんれい》のごときもある。ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]は、いつも大河のごとくに私の眼には映った。私は最初よりそれを述べておいた。――大河の流れのうちには、周囲の野や空を映しながら広々として眠ってるように思える場所がある。それでもやはり流れ変化しつづけている。時としては、静まり返った外見のうちに急流を包んでいて、その猛然たる勢いはやがて、先に行って第一の障害にぶつかったとき、突然現われてくることがある。そういうのが、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]のこの一巻の姿である。今は、おもむろに水を集め、両岸の思想を吸い込みながら、ふたたびその流れをつづけんとしている、海の方へ――われわれが皆行くべき海の方へ。
一九〇九年一月[#地から2字上げ]ロマン・ローラン
[#改ページ]
一
俺《おれ》には一人の友がある!……苦しいときに寄りすがるべき一つの魂を、あえぐ胸の動悸《どうき》が静まるのを待ちながら、やっと息がつけるやさしい安全な一つの避難所を、見出したという楽しさ! もはや一人ではない。疲れて敵に渡されるまで、常に眼を見開き不眠のために充血さしながら、たえず武装していることも、もはや必要ではない。自分の全身を向こうの手中に託し、向こうでもその全身をこちらの手中に託した、親愛なる伴侶《はんりょ》があるのだ。ついに休息を味わい、彼が見張ってくれてる間は眠り、彼が眠ってる間は見張ってやる。子供のようにこちらを信頼してるなつかしい者を、保護してやるという喜びを知る。向こうに身をうち任せ、あらゆる秘密をも知られてるのを感じ、勝手に自分を引き回されるのを感ずるという、さらに大きな喜びを知る。多年の生活のために老い衰え疲れていたのが、友の身体のうちに若々しく溌剌《はつらつ》と生まれ返り、新しい世界を友の眼でながめ、この世の一時の美しいものを友の官能で抱きしめ、生きることの輝かしさを友の心で楽しむ……苦しみをも友とともにする……。ああ、友といっしょにいさえすれば、苦悶《くもん》までが喜びである!
俺には一人の友がある! 自分の遠くに、自分の近くに、常に自分のうちに、友がある。俺は友を所有し、俺は友のものである。友は俺を愛している。友は俺を所有している。融《と》け合って一つの魂となったわれわれの魂は、愛に所有されてるのだ。
ルーサン家の夜会の翌朝、クリストフが眼を覚《さ》ましながら第一に考えたのは、オリヴィエ・ジャンナンのことであった。彼はすぐに会いたくてたまらなくなった。起き上がって出かけた。八時前だった。なま温《あたた》かい多少重苦しい朝だった。早くも四月時分の気候が見舞ったようで、雷雨模様の雲がパリーの上にたなびいていた。
サント・ジュヌヴィエーヴ丘の麓《ふもと》の、植物園のそばの小さな通りに、オリヴィエは住んでいた。その家は通りのいちばん狭い場所にあった。階段が薄暗い中庭の奥に開いていて、不潔な雑多な匂《にお》いを放っていた。急な曲がり角《かど》をなしてる段々は、鉛筆で楽書きされてる壁のほうへ傾いていた。四階まで上ると、灰色の髪を乱し平常着をだらしなくつけた女が、足音を聞いて扉《とびら》を開いたが、クリストフの姿を見てまた荒々しく扉を閉《し》めた。どの階にもたくさん住居があって、建て付けの悪い扉の隙間《すきま》から、子供らの押し合ったり泣き叫んだりするのが聞こえていた。天井の低い各階の中にたがいにつみ重なり、胸悪くなるような中庭のまわりにぎっしりつまってる、不潔な凡俗な生活のうごめきだった。クリストフは嫌悪《けんお》の情に打たれた。これらの人々は、少なくとも万人のための空気をもってる田舎《いなか》を離れて、いかなる渇望のためにここへ引きつけられてるのか、そして、生涯《しょうがい》墓の中みたいな生活をしなければならないこのパリーから、いかなる利益を得ることができてるのか、と彼は不思議に考えた。
彼はオリヴィエが住んでる階に達した。呼鈴の代わりに結び綱がついていた。クリストフはそれをあまり強く引っ張ったので、その音にまた幾つかの扉《とびら》が階段口に半ば開かれた。オリヴィエが扉を開いた。その服装の質素ではあるが気をつけた小ぎれいさにクリストフは注意をひかれた。その服装の心づかいは、他の場合だったら気にも止まらなかったろうが、ここでは快い意外さを与えるのだった。よごれた雰囲気《ふんいき》の中にあって、それはある微笑《ほほえ》ましい健全なものをもっていた。すぐに彼は、オリヴィエの清い眼にたいして前日と同じ感銘を得た。彼は手を差し出した。オリヴィエはおずおずして口ごもった。
「あなたが、あなたがこんなところへ!……」
クリストフは、相手の露《あら》わな気兼ねのうちに、その愛すべき魂を捕えることばかり考えていて、返辞もせずにただ微笑んだ。オリヴィエを押しやって中にはいった。寝室と書斎とをかねて一つきりの室だった。鉄の狭い寝台が、窓ぎわの壁に押し寄せてあった。枕木《まくらぎ》の上に幾つも枕の重ねてあるのが、クリストフの眼に止まった。三つの椅子《いす》、黒塗りのテーブル、小さなピアノ、棚《たな》の上の書物、などが室を満たしていた。室はごく手狭で、天井が低く、薄暗かった。それでも、主人の眼の清澄な光を反映してるがようだった。すべてが小ぎれいできちんと片付いていて、あたかも女の手がはいってるかのようだった。数輪の薔薇《ばら》の花が壜《びん》にさしてあって、古いフロレンス画家の写真で飾られてる四方壁の室に、春の気を少しもたらしていた。
「それじゃあなたが、あなたが私に会いに来てくだすったのですか。」とオリヴィエは心こめて繰り返していた。
「だって、来ざるを得なかったんです。」とクリストフは言った。「君のほうからは来てくれなかったでしょう。」
「そう思っているんですか。」とオリヴィエは言った。
それからほとんどすぐに彼はつづけた。
「まったく、そうかもしれません。そう思われるのも無理はありません。」
「じゃあ、なぜ来られないんです?」
「あまり行きたいからです。」
「なるほどりっぱな理由だ!」
「ほんとうですよ、冗談じゃありません。あなたのほうはどうでもいいと思っていられるのじゃないかと、心配していました。」
「僕もそんなふうに気をもんでみたんです。そして君に会いたくて来たんです。だが、それが君に厭《いや》かどうか、僕にはすぐにわかるんだから。」
「もうそんな厭味は言わないことにしてください。」
二人は微笑《ほほえ》みながら顔を見合った。
オリヴィエは言った。
「昨日は、私は馬鹿でした。あなたの気持を悪くしやすまいかと心配していました。私の臆病《おくびょう》なのはまったく病的です。もう何にも言えなくなるんです。」
「そんなことは気にしないがいいです。君の国には饒舌家《おしゃべり》がかなり多いから、ときどき黙り込む人に、
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