女はひそかに倹約しながら、ピアノを一つ借りるだけの金をためて、オリヴィエをびっくりさした。そのピアノは一定の賃貸借の方法で、幾か月かたつとまったく彼らの所有になるはずだった。負担の上にさらにその重い負担を、彼女はあえて担《にな》ったのだった。期限ごとの支払いが夢の中まで気にかかった。必要な金を得るのに彼女は健康をそこなった。しかしそういう熱中は、彼ら二人に非常な幸福をもたらしてくれた。音楽はつらい生活の中における楽園だった。音楽は広大な場所を占めた。彼らは音楽に包まれてその他の世界を忘れた。それには危険が伴わないでもなかった。音楽は近代の大なる害毒物の一つである。暖房のようなまたは頼りない秋のようなその暖かい倦怠《けんたい》は、人の官能をいらだたせ意志を死滅させる。しかしそれは、アントアネットのように喜びのない過度の働きを強《し》いられてる魂にとっては、一つの休息となるのであった。日曜日の音楽会は、たえざる労働の一週間中に輝く唯一の光明だった。この前の音楽会の思い出やつぎの音楽会に行く希望、パリーを忘れ時を忘れて過ごすその二、三時間、それだけで彼らは生きていた。雨の中や雪の中に、あるい
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