幾時間もいっしょに往来を歩かねばならなかった。そういう精神上の苦痛や肉体上の疲労にも、彼女は弟にたいする愛情によって、また自負心によってまで、一種の享楽を見出すのだった。
 彼女は疲れきってもどって来ながら、オリヴィエの世話をしてやった。オリヴィエは半寄宿生として中学で一日を過ごし、夕方にしか帰って来なかった。彼女は夕食の支度《したく》をした、ガスこんろかアルコールランプかで。オリヴィエはいつも食いたがらなかった。どんな物にも厭気《いやけ》を起こし、なお肉をきらった。無理に食べさせるか、あるいは気に入るちょっとした料理をくふうしなければならなかった。そしてかわいそうにアントアネットは、料理が上手《じょうず》ではなかった。非常に骨折ったあとでも、彼女の料理は食えないと彼から言われるような、悲しい目に出会った。台所のかまどの前の絶望――無器用な若い世帯婦のみが経験する、だれにも知られないところの、生命を毒し時には睡眠をも毒する無言の絶望――それを幾度もくり返したあとにようやく、彼女は少し覚え知ったのだった。
 食事のあとで彼女は、使った少しの皿《さら》を洗ってから――(彼はその仕事を手伝お
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