ために苦労してるということがなかったら、私になんで生きてる理由が他《ほか》にありましょうか。」
 彼にはそのことがよくわかっていた。彼がもしアントアネットの地位にあったら、彼もやはりその尊い辛苦をほしがったであろう。しかし、自分が彼女の辛苦の原因であることは!……彼の自尊心と愛情とはそれを苦しんだ。そして、一身に負わせられた責任は、成功の義務は、彼のような弱い者にとってはたまらない重荷であった。姉は彼の学業の成否に自分の生涯《しょうがい》を賭《か》けてるのだった。そういうことを考えるのは、彼には堪えがたかった。そして彼の力を増大させるどころか、時とすると彼を圧倒することもあった。けれどもとにかくそれは、反抗し勉励し生きることを彼に強《し》いた。そういう強制がなかったら、彼はおそらく生きることができなかったかもしれない。敗北――おそらくは自殺――への先天的傾向が彼のうちにはあった。覇気《はき》をいだき幸福であるようにと姉が彼に望まなかったら、彼はその傾向に引きずり込まれたかもしれない。彼は自分の天性が他から逆らわれることを苦しんだ。けれどもそれが結局仕合わせだった。幾多の青年が、官能の錯
前へ 次へ
全197ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング