って置いた数個の宝石をも売らなければならなかった。そしてもっとも不幸なことは、必要に迫ってるその金を、ジャンナン夫人は手にしたその日に盗まれてしまった。憐《あわ》れにも彼女はいつもうっかりしていて、外に出たついでにふと思いついて、その筋道に当たる勧工場《かんこうば》へはいってみた。翌日がちょうどアントアネットの誕生日に当たるので、何かちょっとした物を買ってやりたかった。彼女は失わないようにと金入れを手に握っていた。そしてある品物をよく見るときに、手の金入れをちょっと勘定台の上に何気なく置いた。ところがそれをまた手に取ろうとすると、金入れはもうなくなっていた。――それは最後の打撃だった。
 それから二、三日後、八月末の息苦しい晩――蒸し暑い濃い靄《もや》が都会の上に重くたなびいていた晩――ジャンナン夫人は、筆耕取次所に急ぎの仕事を渡してもどって来た。夕食の時間に遅れていたが、三スーの乗合馬車賃を倹約して歩いた。子供たちが心配してやすまいかと気づかってあまり急いだので、すっかり疲れきってしまった。五階の住居へ着いたときには、もう口をきくことも息をすることもできなかった。彼女がそういう状態で
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