ろしさの方が強かった。そのうえ、落ち着いて泣くだけの時間も与えられなかった。その朝から早くも、残忍な司法上の手続きが始められた。アントアネットは自分の室に逃げ込んで、青春の自己中心的なあらんかぎりの力で、息苦しい恐怖をしりぞける助けとなりうる唯一の考え、すなわち恋人へ思いをはせること、その方へすがりついていった。彼女は恋人の来訪を、今か今かと待っていた。この前会ったとき、彼は今までになくもっとも懇《ねんご》ろだった。彼がすぐに駆けつけて来て、心痛を共にしてくれるに違いなかった。――しかし、だれも来なかった。だれからも一言の便《たよ》りもなかった。なんらの同情のしるしも見られなかった。それに反して、自殺の噂《うわさ》が広まるとすぐに、銀行の預金者らはジャンナン家へ押しかけ、無理にはいりこんで来て、無慈悲な獰猛《どうもう》さで、夫人や子供たちに激しい喧嘩《けんか》を吹きかけた。
 数日のうちに、あらゆる没落がつみ重なってきた、親愛なる人の死亡、全財産と全地位と世間の尊敬との喪失、友人らの離反。それこそ全部の崩壊だった。彼らを生かしていたものは何一つ残存しなかった。彼らは三人とも、精神上の純
前へ 次へ
全197ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング