た。彼はためらったが、つぎに彼女のそばへ行って、そして言った。
「許してくれ。さっきは少し手荒な口をきいたが。」
彼女は彼にこう言いたかった。
――あなた、私は少しも恨んでおりません。ですが、いったいどうなすったの。苦しみの種をおっしゃってくださいね。
しかし彼女は、意趣返しをするのがうれしくて、こう言った。
「私に構わないでください。あなたはほんとに乱暴な人ですわ。女中かなんぞによりも、もっとひどく私にお当たりなすったのね。」
そして彼女は、遺恨を含んだ激しい早口で苦情を並べたてながら、同じ調子で言いつづけた。
彼は気力のない身振りをし、苦笑を漏らして、彼女のもとを離れた。
だれも拳銃《けんじゅう》の音を聞かなかった。ようやく翌日になって、夜来の出来事がわかったとき、その真夜中ごろに、通りもひっそりとしてる中に、靴の音みたいなきつい音が聞こえたのを、隣人らは思い出した。彼らはそのとき気にも止めなかった。夜の平穏はすぐにまた町へ落ちてきて、その重い襞《ひだ》の中に生者をも死者をも包み込んだ。
眠っていたジャンナン夫人は、それから一、二時間後に眼を覚《さ》ました。そばに夫
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