ン氏はオリヴィエの頭を引き寄せて、それを自分の胸に寄せ掛からせながらつぶやいた。
「かわいそうに!……」
 しかしオリヴィエの考えは、他の方へ向いていた。塔の大時計が八時を打っていた。彼は身を放して言った。
「本を読んでこよう。」
 木曜日には、夕食後一時間たってから寝るまで、本を読むことが許されていた。それは彼のいちばん大きな楽しみだった。どんなことがあろうと、その一分間をもさき与えたくはなかった。
 ジャンナン氏は彼を去らした。そしてなお一人で、薄暗い覧台《テラース》の上をあちらこちら歩き回った。それから彼も家へはいった。
 室の中にはランプのまわりに、子供たちと母親とが集まっていた。アントアネットは胴着にリボンを縫いつけながら、しゃべったり歌ったりするのをちょっともやめなかった。それがオリヴィエには不満だった。彼は書物の前にすわって、眉《まゆ》をしかめテーブルに両|肱《ひじ》をついて、何にも聞こえないように拳《こぶし》を両耳に押しあてていた。ジャンナン夫人は靴下《くつした》を繕いながら、老婢《ろうひ》と話をしていた。老婢は夫人のそばに立って、一日の出費を報告し、その機会をとらえて
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