や、どうしたんだい? なぜもう遊ぼうとしないの?」と父はやさしく尋ねた。
「くたびれちゃったの、お父《とう》さん。」
「そう。では二人でちょっと腰を掛けようよ。」
 彼らは腰掛にすわった。九月の美しい夜だった。空は澄み切って薄暗かった。ペチュニアの甘っぽい香《かお》りが、覧台《テラース》の墻《かき》の下に眠ってる暗い運河の、白けたやや腐れっぽい匂《にお》いに交っていた。夕《ゆうべ》の蝶《ちょう》が、金色の大きな天蛾《てんが》が、小さな糸車のような羽音をたてて花のまわりを飛んでいた。運河の向こう側の家の、戸の前にすわっている人々の静かな声が、静けさのうちに響いていた。家の中ではアントアネットが、装飾用のイタリー抒情歌《カヴァチーナ》をピアノでひいていた。ジャンナン氏はオリヴィエの手を執っていた。彼は煙草《たばこ》を吹かした。オリヴィエは、しだいに父の顔だちをぼやけさしてゆく暗がりの中に、パイプの小さな火を見守った。その火は急に明るくなり、ぱっと吐かれる煙のために消え、また明るくなり、しまいにすっかり消えてしまった。二人は少しも話をしなかった。オリヴィエは二、三の星の名を尋ねた。ジャンナン
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