しそういう抵抗のために、人々はいっそう激しく意地悪くせがんだ。あまり彼の反抗が横着になると、両親の叱責《しっせき》まで加わって、頬《ほお》を打たれることさえあった。そして彼はいつも、しまいには演奏しなければならなかった――厭々《いやいや》ながらではあったが。そして演奏のあとでは、うまくひけなかったことを夜通し苦にした。なぜなら、彼はほんとうに音楽を愛していたから。
 この小さな町の趣味は、いつもそれほど凡庸《ぼんよう》だときまってはいなかった。町の二、三の家で、かなりりっぱな室内音楽会が行なわれたときのことを、人々は記憶していた。ジャンナン夫人がしばしば語るところによれば、彼女の祖父は、熱心にチェロをひき回したり、グルックやダレーラックやベルトンの節を歌ったのだった。今でもなお、大きな楽譜がイタリー歌曲のひとつづりとともに、家に残っていた。愛すべき老祖父は、ベルリオーズが評したアンドリュー氏に似ていた。「彼はグルックを非常に好きだった[#「非常に好きだった」に傍点]」とベルリオーズは言っている。そして苦々《にがにが》しげにつけ加えている、「彼はピッチーニをも非常に好きだった[#「非常に
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