、ナタン夫人へあてた手紙を用意した。自分の死――(彼女はこの言葉を書き得なかった……)――のあとしばらくの間は、弟の世話をしていただきたいと、ナタン夫人へ頼んだ。
 医者も施す術《すべ》がなかった。病勢は非常に激烈だったし、アントアネットの身体は、長年の過労のためにすっかり磨滅《まめつ》していた。
 アントアネットは落ち着いていた。もう駄目だと感じてからは、別に心の悩みを覚えなかった。切りぬけてきたさまざまの困難を、頭の中に思い出していた。自分の仕事が成就したこと、大事なオリヴィエが救われたことを、思い浮かべていた。そしてえも言えぬ喜びが心にしみとおった。彼女はみずから言った。
「それを成し遂げたのは私だ。」
 彼女は自分の傲慢《ごうまん》をみずからとがめた。
「私一人では何にもできなかったろう。神が助けてくだすったのだ。」
 そして彼女は、務めを果たすまで神から生かしてもらったことを感謝した。今この世を去らなければならないことは、やはり悲痛ではあった。しかし不平は言えなかった。それは神にたいして恩知らずとなるのだった。もっと早く神から呼び寄せられることもあり得たはずだった。もし彼女が
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