なつかしい故人や消え失《う》せた幻影といっしょにいた。そして、恋もなく滅んでしまった青春を考えると、たまらない寂しさにとらえられた。薄暗い茫漠《ぼうばく》たる悲しみだった……。往来の子供の笑い声、階下の室のよちよちした小さな子供の足音……その小さな足が自分の心の中を歩いてるように思われた……。疑惑が、いけない考えが、彼女を襲ってき、利己的な快楽的なこの都会の魂が、彼女の弱った魂に感染してきた。――彼女はそれらの悔恨の念をしりぞけ、それらの欲望を恥じた。なんのために苦しんでるのかみずからわからなかった。そして自分の悪い本能のゆえだとした。この憐《あわ》れな小さいオフェリア姫は、不思議な悩みにさいなまれていて、生命の奥底から来る濁った獣的な息吹《いぶ》きが、身内の深みから上ってくるのを感じて、おびえてるのだった。彼女はもう働かなかった。稽古《けいこ》の口もたいてい捨ててしまった。あんなに早起きだったのが、時には午後まで床にはいってることもあった。起き上がるのもふたたび寝るという理由しかなかった。ろくに食事もしなかったし、まったく食べないこともあった。ただ、弟の休みの日――木曜の午後と日曜の
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