けれど彼がいなくなっては、シェイクスピヤもベートーヴェンもなんと空虚なことだったろう!――まさしく美しいには違いなかったが……しかし彼がもうそばにいないのだった。いかに美しいものも、愛する者の眼が共に見てくれないときには、なんの役に立とうぞ。美もまたは喜びでさえも、それをもう一つ[#「もう一つ」に傍点]の心の中に味わうのでなければ、何になろうぞ。
もし彼女がもっと強かったら、自分の生活をまったく立て直して、他の目的を定めようとしたかもしれなかった。しかし彼女は行きづまっていた。ぜひともしっかりしていなければならないという必要がなくなった今となっては、みずから強《し》いていた意志の努力が破れて、ぐったりとなってしまった。一年余り前から彼女のうちにきざして、彼女の気力で押えられていた病気が、今や自由に伸び出してきた。
彼女は自分の室にただ一人で、火の消えた暖炉のほとりにすわりながら、鬱々《うつうつ》として晩を過ごした。暖炉に火を入れるだけの元気もなければ、床にはいるだけの力もなかった。夢想にふけり寒さに震えうとうととしながら、夜中まですわっていた。過去の生涯《しょうがい》を思い起こし、
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