を見るのだと思ってうれしかった。
 旅の支度《したく》は大事件だったが、それがまた始終の楽しみだった。二人が出発したときは、もう八月もだいぶふけていた。彼らはあまり旅には馴《な》れていなかった。オリヴィエはその前夜眠れなかった。そして汽車の中でもその夜眠れなかった。一日じゅう、汽車に乗り遅れはすまいかと心配したのだった。二人はせかせか急いでいて、停車場では人から押しのけられ、二等車の中にぎっしりつめ込まれて、眠ろうとて肱《ひじ》をつく余地も得られなかった――(平民主義をもって知られてるフランスの鉄道会社は、富裕でない旅客からつとめて特権を奪って、金のある旅客らに、自分たちだけ特権を享受し得ると考える愉快さを与えようとしてるのである。)――オリヴィエはちょっとの間も眼をつぶらなかった。正しい汽車に乗ってるかどうか安心しきれないで、各停車場の名前ばかり気にしていた。アントアネットは半ばうとうととしては、またたえず眼を覚《さ》ました。列車の動揺のため頭をぶっつけていた。移動墓穴のような車室の天井に輝いてる無気味なランプの光で、オリヴィエは彼女をながめた。そして彼は突然、その顔の変化に動かされ
前へ 次へ
全197ページ中155ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング