残ってるこの心配な今のほうを、そのときになったら残り惜しく思うかもしれないなどと考えた。ソルボンヌ大学が見えだすと、足もよく立たない気がした。あれほどしっかりしていたアントアネットも、弟へ言った。
「ねえ、そんなに早く歩かないでちょうだい……。」
オリヴィエは姉のほうをながめた。彼女は微笑《ほほえ》もうとつとめていた。彼は言った。
「この腰掛にちょっとかけましょうか。」
彼は向こうまで行きたくない気がしていた。しかしやがて、彼女は彼の手を握りしめて言った。
「なんでもないことよ。行きましょう。」
人名表はすぐには見当たらなかった。それから幾つもの人名表を読んだが、ジャンナンという名はなかった。最後にその名前を見たとき、すぐには腑《ふ》に落ちなかった。何度も読み返したがまだ信じられなかった。それから、それはほんとうであること、ジャンナンというのは彼であること、ジャンナンが採用されたこと、それが確かになったとき、二人は一言も口に出なかった。逃げるようにして帰っていった。彼女は彼の腕をとらえ手首を取り、彼は彼女へよりかかっていた。走らんばかりに歩いて、周囲のもの何一つ眼に止まらなかった
前へ
次へ
全197ページ中152ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング