友だちもなかった。警察に訴えることも、世間の悪評を気にしてなしかねた。それでもどうにか片をつけねばならなかった。黙っていたのでは十分に身を守り得ない気がした。つけねらってる悪者は執拗《しつよう》であって、こちらに危険を及ぼすほどの極端にまで走るかもしれなかった。
男のほうからは、あすリュクサンブールの博物館で会うことを命令する、一種の最後|通牒《つうちょう》を送ってきた。彼女はそれへ赴《おもむ》いた。――いろいろ考えめぐらしたうえついに、相手の悪者はナタン夫人の家で会った男に違いないと信ぜられた。手紙の一つに書いてあったある言葉は、そこでしか起こりようのない一事に説き及ぼしていた。彼女はナタン夫人に骨折りを願い、博物館の入口まで馬車でついて来てもらい、そこでしばらく待っていてもらった。彼女は中にはいった。約束の画面の前に立ってると、脅迫者が揚々と近寄ってきて、わざとらしい慇懃《いんぎん》さで話しかけた。彼女は黙ってその顔を見つめた。男は言い終えてから、なぜそんなに顔を見てるのかと冗談げに尋ねた。彼女は答えた。
「私は卑劣な人を見てるのです。」
彼はそれくらいのことでは閉口しなかった
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